善と悪の判断が生まれる時

チア・シード

創世記3:1-5   


人が創造された初めの出来事。さて、この場に私は含まれるのでしょうか。まだ自己意識すら現れていないかのような状況の中、かつて子どもであった自分がいるとでもいうのでしょうか。この記事を誰が書いたのか、といった問題をとやかく言わないようにします。神からのメッセージとして先ずは受け止めてみましょう。
 
蛇なる者がどんな姿を呈していたかどうかも分かりません。地を這ってはいなかったものと思われますが、とにかく賢い者なのです。後の理解ではこれはサタンとなります。「本当に」神は言われたのか。この語を聖書協会共同訳は表に出しました。訳しにくい場所だと思いますが、出してもらって、より味わい深くなりました。
 
「本当に」とは、神への疑いを誘い込む、巧みな言葉です。一つの言葉でずいぶんと探りを入れられることになります。そこにいたのは女だけでした。女の評価に直結するような議論を検討するつもりはいまはありません。結局この責任はアダムに移ります。男だ女だといった不毛な論争は控えましょう。これは人としての問題となります。
 
人は、たとえ何者かに誘われたとしても、まだそれだけで罪と決まった訳ではないことを知りましょう。「本当に」に対して淡々と事実を女は答えたのでした。決して間違ってはいない答えを。いえ、触れてはいけない、とまでは神は言わなかったのでは。女としては、神の命令は厳しかったとして、神の命令を過大に受け止めていたのかもしれません。
 
しかしこの勘違いを、人類はずっと歴史で引きずってきました。触れてはならないと思い込み、また他人にそれを強いることで圧力をかけ、そして争って殺し合いをしてきたのです。過剰な禁欲を美徳とすることで、それに邁進する修道生活を聖いものと見せつけたとなると、全くファリサイ派と同じことを繰り返してきたとしか言いようがありません。
 
食べると死ぬ、それは確かに言われていたことでした。しかし触れるなという余計な理解が破られることで、肝腎の食べるなという禁まで破ることになってしまいます。蛇は確かに賢い奴でした。論理に通じていないと、この計略に乗っかかってしまいます。目が開け善悪を知る者となることが好ましく思えた女は、木の実に手を伸ばすことになりました。
 
人の目に好ましく思えてしまう背景には、目が開かれるという誘惑がありました。目を覚ましていることは必要ですが、目が開かれる必要はなかったのです。善悪を知る、つまり物事を善と悪で振り分けることを経験してしまうとは。殺し合いも裁き合いも、そこから始まるではありませんか。人間が自分を神だと錯覚する基を、聖書は見事に暴き出します。


Takapan
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