改名という一つの結末

チア・シード

創世記35:9-15   


エサウとの再会を果たし、けじめをつけました。ヤコブは、なんとか元の地に戻って来ることができました。そのカナン人たちとの間に、娘ディナの事件で諍いがあり、居心地の悪い情況となったところで、ヤコブは神の声を聞きます。それから聖地ベテルへ導かれ、そこで住み、そこでヤコブは、イスラエルという名をもらいました。
 
しかし、エサウに会う前でしたが、すでにペヌエルにおいて、見知らぬ者との格闘によって、これからはイスラエルと呼ばれる、と告げられていたのです。そのときヤコブは何の反応も返していません。今、神がイスラエルと名づけたという出来事が起こります。神は、自らを全能の神だと称しましたが、アブラハムの改名のときにもそう言っていました。
 
神は人の名をも変えます。それは人にとり、絶大な変化です。名はただの呼ぶ音ではなく、その人格の本質を表すものと見なされていたからです。だからこそ神は全能と言えるのかもしれません。頑迷な人間の核心を一変させる力を、それはもっています。アブラムからアブラハムになったときにも、本当のイスラエルの歴史の開始を意味していました。

悲しきかな、ヤコブはこの直後、最愛の妻ラケルを喪い、父イサクを葬ります。そして、物語はすっかりヨセフへと移っていってしまいます。アブラハムのように、改名後にドラマがまだまだ続くというふうでもなく、ヤコブはイスラエルと変えられた後は、人生の終着駅へとただ向かうだけの存在となってしまうのです。
 
後はもうヨセフを中心とする物語の中で、ただの脇役に回っただけです。イスラエルという名は、ヤコブ自身のためではなく、その子孫のためでしかなかったのです。一つの国民が生じ、その土地が与えられます。そのために、イスラエルという名が必要となり、その名を受けたという意味の事件となったのでした。ヤコブ個人にとっては。
 
アブラハムからイサクへと継承された神の選ばれし民族が、いまイスラエルという名と共に確立します。神は一旦彼を離れて去って行きます。思えばヨセフに神が直接語りかけたという記事はありません。ベテルに立てた石柱は、神が語った場所として、別格の扱いを受けるようになります。次のモーセへ、イスラエルは委ねられることになるのでした。


Takapan
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