将来に遺す神の国の刻み

チア・シード

創世記35:9-15   


兄エサウへの不安が解消され、ベテルで祭壇を築いたヤコブは、神から決定的なものを受けることになります。パダン・アラムから帰って来たと記されているのは、もはやラバンの支配下にはいないことの現れでしょう。ここに神が再びヤコブの前に現れます。ヤコブという名だったが、これからはもうヤコブとは呼ばれない。イスラエルが名である。
 
この大事件に対して、ヤコブがどう反応したか、これが聖書には書かれていません。一方的に神が現れ一方的に名づけたのです。続けて、神は全能であると告げましたら、産んで増えて一つの、否多くの国民が出てくること、それから見合う土地を与えること、こうしたメッセージが立て続けに送られます。ヤコブは答えません。表情も隠されています。
 
神の言ったことばかりが下りてきます。この場所で神はヤコブを離れて昇って行ったと不思議な書き方がされています。やはりこれは「昇る」としか表現できないのでしょうか。ヤコブの見たものの実態は定かではありませんが、ともかく言葉で反応することはヤコブはなかったにせよ、行動がすぐに始まっているところには注目しましょう。
 
そこに祈念碑として石の柱を立てます。後世に伝え遺すためのものです。石はそのまま古びず遺ることでしょう。注ぎの供え物は、聖別つまり特別なものであるという徴です。献げる者にもそれが強く意識され、自覚されますし、外へ宣言することにもなります。ワインとオリーブ油は旧約の規定によるものでしょう。え、時代的なことが気になりましたか。
 
ヤコブ自身が、決められた律法に従ったというよりは、神の直接的な啓示により理解したのだ、と説明するのも安易だし、後世の律法規定を過去に遡って織り込んだのだ、とするのもやはり単純過ぎるような気がします。それよりも、ヤコブはワインとオリーブ油を、この時どうやって調達したのでしょうか。生活に必要なので常備してあったのでしょうか。
 
もしかすると、長い時間をかけての出来事を、するすると一度に為したように描写しているのではないか、という理解もできるでしょう。そこはベテル。エルサレムの北近くと言われますが、意味は「神の家」。これはそのまま「神の国」の概念につながることができそうです。神の支配する生活と儀礼をヤコブの行動に象徴させているのかもしれません。


Takapan
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