ヤコブが変わった

チア・シード

創世記32:23-31   


イスラエルの歴史にとり、これは大きなエポックとなりました。もちろんヤコブ個人にとっても人生の境目なのですが、ここで「イスラエル」という名が与えられたのです。名が与えられるということは、実体が生まれるということにもなります。ヤコブはこの時、そうとう恐れていました。兄エサウからかつて逃げ、伯父ラバンからもまた逃げたのです。
 
自分の居場所がありません。エサウのいる土地しかもはや頼れる場所がないので、戻ろうとしていたのです。心底落ち着きません。不安の極致です。大きな贈り物を先行させ、自分と妻子は後続の列に、隠れるように進みます。川を渡るときも、自分一人が遅く残ります。その夜の出来事がここに克明に記されています。
 
不思議なことに、ヤコブの恐怖は、未知の男に対しては起こらなかったようです。普通そちらの方が怖いと思うのですが、エサウに対するのと違って、勇敢に闘います。ヤコブはこの格闘に対して、それほど危機感を丸出しにしているようには見えません。股関節を外されたら、もう命を奪われてしまいそうなのに、妙なことを言うのです。
 
祝福してくれるまで放しません。私から見れば、狂気です。ここの描写は、ヤコブのリアリティを欠いています。ヤコブは男に名をもらいます。「イスラエル」というその名は、神と、また人々と、闘って勝ったからだという説明があるだけです。神闘う。神が闘うのか、神と闘うのか曖昧ですが、どちらでもあるのかもしれません。
 
ヤコブの方が今度は男に名を問います。でも答えがありません。ヤコブはこの出来事を、神と顔を合わせてしまったと漏らしています。初めから神だと思ったのでしょうか。神を見れば死ぬと信じられていた時代の話です。これを超えて、恐れは去りました。踏み出す力が与えられました。ヤコブはこのとき、変わったのです。


Takapan
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