神の与えた助け手は失敗したので
チア・シード
創世記2:18-25
「人」の創造は、実質「男」の創造でした。こういう伝統は、英語の「man」という語にも今なお引き継がれています。「人」が深く眠ったとき、神は「そのあばら骨の一つを取り、そこを肉で閉ざされた」と言い、抜いた「あばら骨で女を造り上げ」ました。「人」は、連れて来られた者を見て、いたく感動します。「これを女と名付けよう」と。
「人」は「生き物それぞれに名を付ける」ことをすでにやっていたので、「女」も名付けたというわけで、名付けるという行為は、「人」の大きな仕事であったことになるでしょうか。「名」を与えるというのは、存在の本質を示すことですから、女に対しても、男は優位を得たことを意味するものなのかもしれません。
「こういうわけで、男は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」というのですが、さて、「一体となる」のはどういうことなのか、理解は様々あるかもしれません。まず、二人は元々一体だったのです。プラトンが『饗宴』で描いたようなイメージとはもちろん異なりますが、「人」のあばら骨から造られた女が、父母を離れたこととは無縁です。
「こういうわけで」というのは、決して論理的なつながりを表すものではないでしょう。ここに二人の裸の問題もありますが、これはむしろ木の実事件の後に関わってくるので、いまは触れないでおきます。むしろ気づきたいことがあります。主は「人」に掟を告げた後、こう言います。「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう。」
これが女のことだと私たちは自然に理解しています。でも神はこう言った直後、何を造ったでしょうか。「あらゆる野の獣、あらゆる空の鳥を土で形づくり、人のところへ連れて来られた」のです。それから、人にそれらの名を付けさせています。「しかし、自分にふさわしい助け手は見つけることができなかった」というのです。
そう言うからには、「人」が、自分に助け手がいないことを自覚した、としか読めないのではないでしょうか。神が「助け手を造ろう」と言っても実現されませんでした。人がノーを突きつけました。神と人との関係の始まりに、ちょっと釘を刺してみました。だから「人」の一体となっていたところから真の「助け手」が与えられることとなるわけです。