創造の業の完成と継続

チア・シード

創世記2:1-4   


天地ならびに地上の自然現象のインフラとも言える諸々の世界が成立しました。これを完成と称することが、とりあえずできるようです。こうして第七の日が過ぎて行きます。第七の日に神が何かをなしたのではなく、第七の日が始まった時点で、もうすでに神の仕事が完成していた、という意味に受け取る必要があるようです。
 
神は第七の日、業を休みます。これが安息日の根拠となります。第六の日まで、神は創造したものを良かったと見ていましたが、ここへきて、造ったすべてのものは「はなはだよかった」とで前章の最後に言っていました。その上で第七の日を祝福しており、特別なものとして聖別したのだ、と聖書の記者は理解し、記述しています。
 
聖別とは、聖なるものとすることであり、他とは違うものとして際立たせ、特別に扱うことです。分離することです。この神の言葉たる本のすべてにわたり、重要な意味をもつ言葉となります。私たちはこの書を、聖書と呼びます。他の一般的なものと同じものとして見ることのできないもの、別格扱いをすべきものだというのです。
 
神が私たちに対して、聖なる者たれと告げるとき、神は明らかに私たちを他のものとは別のものだとして取り分けることを表しているのだと理解しましょう。他の被造物とただ同じであるのではなく、なんとなく画一的に眺めてはならないもの。私たちは一人ひとりが、そのような者として神に扱われていることに気づきたいものです。
 
神はこうして、すべての創造の業を止めました。ではこの後、世界はどうなるのでしょうか。すでに神が設置した創造の業の下、世界はある意味でメカニカルに動き始めたのでしょうか。イエス・キリストの現われのような、神の特別な介入がない限り、世界は自然法則に沿って動いていくようなあり方を呈するものとなったのでしょうか。
 
天地創造はこうして終わったと読むこともできそうですが、むしろこれはこの章から後の記述の筆頭となり、ここからの世界の動きを後押しするものように読んでみましょうか。創造の業は一旦終わったことになりましたが、本当に終わったのでしょうか。その後も神は世界の形成に関与し、今も人を新しく造りかえているように思えてなりません。


Takapan
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