欠陥ある人々の中の祝福

チア・シード

創世記27:34-38   


父には一つの祝福しかありませんでした。兄エサウをいよいよ祝福するというその日に、弟ヤコブを偏愛していた母リベカは、その情報を聞き、策略を練ったのです。兄のふりをして、兄の祝福を奪い取りなさい。もし失敗したら、呪いは母が受けます。視力の覚束ない父イサクは、まんまと嵌められて、兄と勘違いして弟ヤコブを祝福してしまうのです。
 
祝福をもらえると嬉々とした思いで狩りに出かけたエサウを待ち受けていたのは、残酷な運命でした。いや、運命というよりも、これは母リベカが仕組んだ筋書きでした。エサウの恨みはヤコブに向かうことになりますが、ヤコブはリベカの言いなりに動いただけでした。リスクがあると及び腰だったヤコブをも励まして唆したのです。
 
エサウの憎しみは、むしろ母に対して向けられるべきだと傍目には見えてしまいます。エサウは父に縋ります。祝福してください。私を、いや私も。この悲痛な願いは、事が起こってしまってから初めて切実に感じられてからのものです。人は、そうなる以前には、そこまで必死にはなれないものなのです。
 
しかしイサクは、ヤコブにすでに祝福を与え尽くしてしまったことを残念そうに、エサウに告げます。この時、ヤコブが奪ってしまった、と弁明しています。しかしイサクも狡い。騙された自分の責任など少しも感じていません。ただもう被害者であるような言いぶりです。祝福を与えるというのは神の代行ですが、イサクは責任感が欠如していないでしょうか。
 
否、そもそも神とは責任を担うような存在なのでしょうか。神と祝福というテーマから考えていくだけの価値はありそうです。エサウは長子の権利を、自分の愚かな食欲と引き換えに、すでにヤコブに渡してしまっていました。だから何をいまさら、というふうに見えないこともないのですが、今父の祝福をも完全に弟に奪い取られて憤っています。
 
これもまたエサウ自ら招いたとまでは言わないにしても、この怒りにも何か釈然としないものを感じます。それにしても、今回の祝福というものは、とにかく一つしかないとされるものでした。ただ一度きりの決断と実行が必要とされました。その重みというものは、人生の意味を、生きていく道そのものを、左右するものだとよくよく弁えておきたいものです。


Takapan
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