ここがモリヤの地

チア・シード

創世記22:9-13   


モリヤの地へ行く途中、アブラハムと息子イサクは、少々の会話をしています。そこそこの描写です。けれどもそれは、あまりに淡々としています。少なくとも、父親の心理的な葛藤めいたものは感じられません。少なくとも、綴られていません。父アブラハムは何も考えずに、何も思うことなく、これらのことを実行したのでしょうか。
 
ヨナのように拒む心もないようですが、この辺りはすべて、解釈者の思うままです。どのように解釈してもよいのです。私たちがアブラハムの心の内を決定することはできないのですから。アブラハムはイサクを縛ります。祭壇があり、薪の上に息子を載せます。どんな心境か、すべては読者たるこちらの思うままです。
 
そして刃物を手に取ります。きっと目は閉じていたでしょう。自分のやろうとしていることの意味を考えていたようには思えません。本当に神がそう命じたのか、疑うことさえしなかったのでしょうか。ある意味で馬鹿です。純朴すぎます。このアブラハムの行為を、主の天使が止めます。呼びかける声により、行動は中断されます。
 
アブラハムは「はい、ここにおります」と手を止めました。私はここにいる。これが私である。アブラハムは、神からのコールに至極当たり前の応答をしただけです。このときまだアブラハムは、まともに顔を上げてはいないものと思われます。このあと目を上げて雄山羊を発見しているからです。
 
天を仰いでいたのではなく、ここにいると返答したのです。祈りの姿勢は如何様にあってもよいことを感じます。上よりの声はどのようにな情況においても及んでくることが分かります。このアブラハムの心理を、私たちはそれぞれどのようにでも考えてよいのではないか、と先ほど私は提言しました。でも、本当にそれだけでよいのでしょうか。
 
私はこの現場に同行していなかったのでしょうか。否、私こそアブラハムではなかったのでしょうか今ここで私は、アブラハムなのではないでしょうか。かけがえのない大切なものを、約束のものを滅ぼせと迫られていないのでしょうか。私にとってモリヤの地はどこなのか。今ここがモリヤの地ではないのでしょうか。主の備えの期待を計算などしないままに。


Takapan
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