神にも分からない

チア・シード

創世記22:7-12   


アブラハムはイサクと二人で、運命の地へ歩いて行きました。一方は生殺与奪の権をもち、相手の命を自由に扱うことができる立場です。つまり一方は他方にとり神になっています。神もまた、そのように人と共に歩いているのでしょうか。イサクが呼びかけます。私たちが神に祈り呼びかけ、問うのと比較されるでしょう。分からないことを問うのです。
 
神の名をイサクが呼ぶように父を呼びます。アブラハムは答えます。一つの信仰をもって答えます。イサクを献げるとは言いません。神がいけにえを備えることを告げます。イサクを殺さないとは口にしていないので、アブラハムが嘘をついたわけではありません。しかしまた、特別な信仰をもっていたということも言えないだろうと思います。
 
二人はさらに続けて一緒に歩きます。重い沈黙が続きます。他の会話がなされたようには書かれていません。モリヤの地へ着きました。アブラハムは、計画していたことを実行に移す準備を黙々とこなします。やはり小羊を神が備えるというのは、格好良い信仰ではありません。死者が蘇るという信仰があったと、真に受けるのは控えておきましょう。
 
読み込んではいけません。アブラハムはどう見ても、イサクを殺すつもりでいたのです。もしそこに、少しでもそれを避ける心があったとしたら、すべては偽善となります。イサクは暴れず、抵抗の言葉さえ吐きません。屠られる小羊のように黙して事態を見ています。どうしてでしょう。恐怖か諦念か私には分かりません。説明をしようとも思いません。
 
二人にしか分からないものが、そこにありました。神ですら、分からなかったのです。アブラハムが神を恐れる者であることがいま分かった、と主の天使を通じて言っています。人の心にある信仰を神は、その人が行動に移すまで、分かっていなかったのです。惜しまないその心は、神にのみ従う心でした。それがようやく神にも分かったというのです。
 
そう、それだからこそ、天から主の天使が呼びかけました。アブラハムの名を二度呼んでいます。二度というのは、重要なサインです。アブラハムは呼びかけ、あるいは召命には応じます。このときイサクはどう思っていたことでしよう。その後のイサクの人生に、トラウマがあったようには見えません。イサクはむしろ平和を愛する人生を歩んだのです。


Takapan
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