イサクは戻って来る

チア・シード

創世記22:4-8   


礼拝をして、また戻ってくる。そう言ってアブラハムは、モリヤの地を遠くに見る場所で従者を置いてきました。礼拝を共にするというつもりはなかったのです。そういう考えは必要ない時代でした。いまなら少し違うかもしれません。ここまで3日かかっています。薪をろばに積んでいるのでしょう。従者は2人、奴隷か僕ということなのでしょうか。
 
礼拝は主人、自由人の行為でありました。当時の文化がよくなかったとする見方は現代的に過ぎます。今の私たちは、等しく神に仕えるのだと自覚したいところです。私たちはここで言うならば従者として、あるいはろばとして、アブラハムの同行するに値するとされたのです。共に礼拝させてもらえなかったこのケースだと、アブラハムと神との関係が主軸です。
 
私たちは読者として、どうしてもアブラハムに同化しなければ読めないかのようです。このときイサクはただの素材として扱われています。しかし口を開くのはイサクが先です。イサクの人格にもっと注目しましょう。「父よ」と呼ぶイサクは、まるでイエスのようです。イサクにイエスを重ねて見ることはよくあるのですが、殆どがアブラハムの視点からです。
 
父なる神がひとり子を惜しまずに献げた。ヘブライ書を見るとただ一度だけのいけにえとなったイエスの姿も浮かんできますが、イサクもアブラハムのために決定的ないけにえとしての姿を呈した、そのようにどうしても見てしまいます。けれども、イサクはここまで、共に礼拝するために父に同行して神の示す場所まで来ました。
 
そして、礼拝して戻ってくると父親は言ったのです。イサクも礼拝をするのです。いけにえの小羊は、とイサクは不思議に思い問います。父は、神が自ら備えると預言します。2人は続けて共に歩んで行きます。イサクも歩いています。礼拝の目的を心に懐いています。いけにえについて問うたのも、礼拝をすることを前提に考えたからだと思うのです。
 
私たちの礼拝とは何でしょうか。礼拝する仲間と共に歩いているでしょうか。そして、礼拝に行ってから、戻ってくることを弁えているでしょうか。教会に集まる。それから出て行って、再び世で歩くのです。焼き尽くすいけにえを献げてから、再びここへ戻ってくる。神が備えたイエス・キリストを主として排してから、戻ってくるのです。


Takapan
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