神の言葉の実現を笑う.

チア・シード

創世記21:1-8   


人が一人産まれるために、神がどんなに関わっているか、思いを馳せます。この子の誕生にも、神からの干渉があり、人の側の不安に包まれた多くの時間や、様々な思惑がありました。アブラハムは「信仰の父」と呼ばれるようになりましたが、百歳まで子がいなかったことを思うと、「父」ではなくして象徴的に「父」とする不条理すら感じます。
 
このアブラハムからイサクが生まれたのですから、「信仰の父」の言葉に当てはめると、イサクが「信仰」であるみたいでおかしいですね。創世記でイサクは記事も少なく、地味です。日本史の将軍の例でも、二代目は目立たず、三代目が個性を発揮します。生まれながらの将軍であるため、既成の軌道の中で帝王学のままに育つためでしょうか。
 
しかしイサクは、争いを避け平和な生き方を選んでいたようにも見えます。私たちも学ぶことが多々あるような気がします。さて、子ができない悩みは、聖書の物語にはいくつもあり、アブラハムとサラはその嚆矢として、高齢のため諦めていた中から、奇蹟が起こりました。主は「言ったとおりに」サラに子を与えたのです。
 
主だから当たり前だと、下手な信仰者の私たちは考えてしまいそうですが、よく見つめたいものです。神の言葉は、すでに存在なのだと認めることが、信仰だと言えないでしょうか。肉体的な年齢という人間の常識を破って、神は人にない力を発揮します。イサクという名を与え、割礼を施したのは、アブラハム。なんと御年百でした。
 
一年前にマムレの樫の木のそばで現れた三人が、サラに男の子が生まれることを告げたとき、サラは心の中で笑いました。それを見抜かれて否定したものの、ごまかしようがありませんでした(18章)。それが、いまや本当の意味で、神が自分を笑わせてくださった、とサラは感慨深く思い起こします。これを聞いた人々がサラのことを笑うだろう、と。
 
そう、「イサク」というのは、「彼は笑う」というような響きをもつ名前なのだそうです。一年前は「まさかそんなことが」と心の中で笑ったサラが、今は「祝福された」と、女であることの喜びを噛みしめて笑います。私たちは、望外に与えられた喜びと祝福に、もっと声を出して笑いましょう。神の言葉の実現に、神を称えて笑いましょう。


Takapan
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