神のかたち

チア・シード

創世記1:26-28   


歴史を作った聖書箇所です。神の像・神のかたちと訳されたもの、それが人間のことであるという。かたちとは何か。これだけで無数の議論が生じました。内容や質料ではなく、形相的なものなのでしょうが、やはりこれはギリシア哲学の枠組みとは違うものです。とにかく人間には、被造物の中でも何かしら特別な立場が与えられたということのようです。
 
人間はその上神にえらく祝福され、産めよ増えよと盛り立てられます。地に満ちて支配し、他の生き物すべてを治めるように任じられます。人間はまるで、地上の王のように振る舞えべく、お墨付きを得たのです。けれども人間は、思い上がることにより、この支配構造の理解を誤ったふうでもあるのです。
 
創世記1章と2章とで、2つの異なる創造物語があると指摘されて久しいですが、編集されこのように一つにまとめられたとき、本当に別物として調整不能なほど違うものと考えられたのだったら、どちらかを廃棄するか修正するかしたのではないでしょうか。しかしどちらも遺された。ここに神からのメッセージとして大切なものがあると重んじたのではないか。
 
すると、治めよというこの命令も、きっと大切な人間への使命として与えられたのです。今の時代から見て、歴史はどのように生まれてきたのでしょう。ギリシア文化とのつながりもあり、対象化した自然を操作して手を加え、人の意志の実現を企図し貫いてきたこと、変化させたことが、自然を危機へ追い込んでいるのではないかと反省しなければなりません。
 
人はどこから来たのか。この問いは創造物語が答えようとしたとも言えます。人はどこへ行くのか。これを考えるには、人がどこにいるのかという問題が必要で、それが方向づけるように思われます。アダムへのこの問いは、ひとつの自由を人間に意識させたとも言えましょうが、神のかたちは、悲しくも、神を裏切ることもできる自由を有していたのです。
 
信頼の中で創造され、契約があったのですが、人の裏切りでこうして現にある人類の歴史を作り出しました。ユダばかりではありません。しかしユダの不幸に倣わぬように戒められた私たちは、まだ神のかたちを宿し続けているに違いありません。その憐れみの中にあって、なおも治めさせようと神は今告げているのかどうか、聴き取らなければなりません。


Takapan
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