言葉にできない

チア・シード

創世記1:20-23   


水には、群がる様々な生き物が創造され蠢き、大空には、翼のある鳥が創造され、飛ぶ。そして神はそれらを祝福し、産めよ・増えよと命じます。ここに、生き物なるものが造られます。それらは自らの思いをもつかのようにして動き回り、増えることのできるものとなります。第四の日までには見られなかったような、画期的な出来事です。
 
いったい、生き物とは何でしょうか。生命をもつもの、あるいは語弊がありますが魂の存在のようにも思われます。もちろん、すでに第三の日に草木が生じていますが、いま私たちが考えるように植物と動物とのつながりの認識はないように見受けられます。太陽なきままに草木があったというのも、光合成を無視しているわけですから。
 
光はあれど、太陽無きままに草木は置かれました。そしていまは第五の日。植物と動物との間に一日がはさまり、連続性が意識されていません。私たちの理解や常識、あるいはパラダイムに収めて、古代の人が考えたことを歪めてはいけないと思います。ただ、魚類と鳥類を想定してまず出現させているのは、私たちの理解と重なる部分はあるようです。
 
ところで、この箇所にある注目すべき語として、いま「海の怪獣」(聖書協会共同訳)を挙げます。怪獣とはまさに怪しい獣です。新共同訳では「怪物」、新改訳では「海の巨獣」、口語訳は単に「獣」となっています。「海の」は補った言葉で、「海」という語は原文にはありません。これは聖書の中では他にも登場している語ですので少しご紹介します。
 
時にそれは「蛇」となり、英語では「ドラゴン」や「ホエール」にもなります。邦訳でもそうですが「ジャッカル」となることもありました。こうなると、何が何だから分からなくなります。つまりここには、私たちの概念では捉えられない世界があるということです。当時はこれで、イメージがピタッと決まっていたということなのでしょうが。
 
もう何だろうと私たちが考え込んだ時点で、すでに見ているものが違うことの証拠となります。水の中には大きな生き物が生きうるでしょうから、それをわざわざ特記したというだけのことなのです。人は、知りうるかぎりの大きなものを、なんとか表現しようともがいたのでしょう。私たちも、大きすぎる神の愛を、言葉に尽くすことができません。


Takapan
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