年末の天地創造と新年の人の創造

チア・シード

創世記1:1-2:5   


聖書通読のほかに、「聖書愛読こよみ」をデボーションの道標としています。その粋な計らいを見ました。2023年の大晦日に選ばれた聖書箇所が、この創世記の冒頭なのです。世界の初めだから、新年に相応しいような気がしますが、これにははっとさせられました。新年を待つことが、神の新たな創造を待つ思いと重なるような気がしたからである。
 
もとより、この創造は、人間の見た風景ではありません。聖書はそもそも神の視点で語られています。神の意を人に教え書かせたものです。そのスタンスは、最初から最後まで崩れていません。創世の記録もそうです。但し、とにかく人がこれを知らない点を強調しておきましょう。見たこともないし、想像の域を超えています。
 
つまり、どんな言葉でどのように言えばよいのか、人間には分からないのです。ボキャブラリーの貧困さもさることながら、とにかく表現が見つからないのです。絵力のない人が線描きした絵をみて、何なのかを当てるゲームがあります。あれと同じです。いったいそれが何を表そうとしているのか、全く読み取ることができないのです。
 
神の言葉の場合、元の意図や風景がどうであったのか、人はついに解答を知ることができないのです。この創世の実際も、永遠に謎なのです。初めがそうならば、当然終わりもそうです。預言の中の審判や黙示録の情景が、映画でも観ているように、鮮明に分かるはずがないのです。ただ、これらの言葉で驚くべき体験を伝えようとしていたわけです。
 
その事実だけは、伝わってきます。人のもつイメージを暴走させてはいけないのですが、そのイメージくらいしか、私たちが考えるために頼るものはありません。一人ひとりがそれぞれに考える物自体の姿は、互いにどのようにコミュニケートしてゆけばよいのでしょうか。同じ言葉であっても、それぞれの人が思い描くものは異なっているからです。
 
「初めに神は天と地を創造された」という最初の言葉だけが、せいぜい抽象的なテーゼとなっている、と言えます。後は非常に具体的なのです。この抽象的な宣言が、その具体的な事柄を支配する原理となります。聖書はこの最初のフレーズを、あちこちでリスペクトしています。こうして人間が創造される直前で止めて、新年の物語を期待しましょう。


Takapan
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