天地創造による解放

チア・シード

創世記1:1-5   


聖書の冒頭です。有名です。「初めに、神は天地を創造された」とある文は、聖書のオープニングを飾るに相応しい、威厳ある宣言です。ユダヤ文化では、神が存在するか否かという問いはありません。神の行為からスタートします。この冒頭については、優れた研究が多々あり、考察され、霊的な黙想も人の数だけあるだろうと思います。
 
私たちは、自分の初めについては、自分では分かりません。それを認識することはできません。親から聞いてそれを信じているだけであり、あるいは推測するかとなります。ここでは神が主語です。主体としてすでに神です。天地とは別次元に、すでにあるわけです。私たちにその全貌は分かりません。この情報は、どこから得たのでしょう。
 
創造のメカニズムなど、考えても分かるはずがありません。それでも、スタートが闇であるらしいことくらいは、記者はなんとか書き記します。神は霊であり、なぜか水が天地に先んじてあるかのように読めます。水とは、もしや生命の核として、なんらかの命のシンボルとして記されているのでしょうか。活ける水は無条件にあったのかもしれません。
 
神の霊があったため、水は命だと推察します。もし今の時代の人間もまた神の霊を求めているのだとすると、創造の初めからそれは地の上で揺れていたという指摘は驚くべきことです。そこへ神が最初の言葉を発します。その言葉のイメージすら想像できませんが、神の、天地に対する最初に営みが言葉であったことは、味わっておきたいと思います。
 
その言葉の内容は「光あれ」というものでした。光がまず実現しました。神の言葉は空しく消えるものではなく、現実存在と等置されなければならないものですが、光という形で、まず神の行いが始まっている天を押えておきます。この光は、闇とは別のものです。太陽の創造はまだ先ですから、太陽以前の光は、私たちの思う昼とは異なるものでしょう。
 
昼のうちに光の中を歩めなどという言葉も、これを機に再考すべきだと考えます。この第一の出来事に続いて、命の自ら空が分かれていきます。天です。人の命をつくる水は、天と分かたれたところにスタンバイします。太陽以前の夕べと朝は、私たちの理解からすれば異様なものですが、固定的なイメージから私たちは解放される必要があるようです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります