交渉の拙さではない

チア・シード

創世記18:27-33   


少しばかり背景に触れておきます。アブラハムのもとに三人の客があり、神からの使いでした。そして年をとった二人に来年男の子が生まれると告げます。まさか、と二人は信用できません。客人を送りがてらアブラハムは、共にソドムの町を見下ろします。聖書の記者はもう「主」と呼びますが、主はアブラハムに正義を行う目的を明らかにしました。
 
そしてソドムとゴモラの罪は大きい、と言いますが、それだけでアブラハムは、これらの町が裁きに遭うことを知ります。アブラハムはなおも主の前におり、正しい者があの町に50人いても滅ぼすのかと主に問います。すると主は、その50人のために滅ぼすことはせず、町全体を赦そうと約束します。今日はここから後を読むのです。
 
私は塵あくたにすぎません。アブラハムは主の顔色を窺いつつ、見上げるような視線を送りながら、主に交渉を試みます。もし50人でなく、5人少ない45人だったら、町をすべて滅ぼすということになりますか。主は、滅ぼさないと答えました。アブラハムはこれにほっとして、さらなる交渉に挑みました。では40人では? 主は滅ぼさないと応じてきました。
 
このようにして、アブラハムは10人だったら、とまで攻め続け、主は同じように、滅ぼさないと返答しました。これで主はアブラハムと語り終え、去って行きます。アブラハムも自分の住まいに戻ります。甥のロトがソドムにいたのでアブラハムはロトを助けたかったのでしょう。ロトの家族は10人に満ちませんが、10人はいるだろうと踏んだのでしょうか。
 
よく、このようにアブラハムのかけひきは失敗だったと説教されます。10人で止めて安心して交渉を止めたのはよくなかった、などと。けれどもよく見ると、アブラハムが話を止めたとは書かれておらず、主が語り終えて去っていき、それからアブラハムが家に戻ってきます。アブラハムのほうから対話をやめたというようには読めません。
 
アブラハムが、ロトの家族の人数などを計算して、それで10人でよしとした、というのは全くの外部の推測に過ぎないのです。そうではなく、アブラハムは根本的にこの問題の解決を図る土俵の上にはいなかったのではないかと私は思います。つまり、この後アブラハムがさらに食い下がっても所詮無駄なのことであったために、交渉を主が打ちきったのだ、と。
 
アブラハムは今日、初期設定の50人から減らして交渉を始めました。しかしすべて無意味だったのです。そもそも、人数で考えたのが間違いでした。アブラハムは、正しい人の存在云々に関係なく、たとえ一人も義人がいなくても救ってくれ、と始めるべきだったのです。義人などいません。それなのにキリスト・イエスは命を失い、ひとを救ったのです。


Takapan
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