現代のアブラハムの妄想

チア・シード

創世記18:22-33   


ソドムとゴモラの罪は極めて重い。そう言ってアブラハムが迎え入れた謎の3人は、実情を確かめるかのように、しかし確実に滅ぼすために、ソドムへ向かいます。3人は、主の使いなのでしょうか。しかし「主自身」と呼んでも差し支えないような存在に見えます。「しかしアブラハムはなお主の前に立っていた」ことを、ここで押さえておきましょう。
 
人は、主の前に立つのです。その後のアブラハムの執り成しが、神への祈りだとしますと、人は主の前に立つと、神に向き合って祈る、ということになるのでしょうか。「あなたは本当に、正しい者を悪い者と共に滅ぼされるのですか」と問いました。もし50人正しい者がいても、というところから、段階的にアブラハムの値切りが始まります。
 
町全体を滅ぼす、という神の計画に対して、アブラハムは抵抗するのですが、個人の信仰という組み合うのか、という問題があります。一人ひとりその信仰に応じて裁かれるのでしょうか。それとも、属する世の全体の悪により、個人の事情は無視されるような恰好になるのでしょうか。古代においては、個人という意識が今のようでなかったと聞きます。
 
近代人の意識は、古代のものとは違い、個人的が強くなり、世界観も大きく変わったものと思われます。けれども私たちには、このソドムのような帰属意識が、ないわけではありません。教会というものがあるからです。教会は、一つの共同体として成立しました。建物に基づくものではありません。建物はただの器で、それなしでも教会は成立します。
 
コロナ禍以降、リモート参加というものが社会に広まっています。企業でも何でも、リモート会議は非常に有効なものと認められました。教会でも、リモート礼拝の良さが認識されました。病人も高齢者も、教会の中に留まりやすくなります。教会は救いの舟です。50人の不埒な者が混じっていても、教会は救われるのか、と問うてみてはどうでしょう。
 
現代のアブラハムは逆発想で交渉し続けます。ついに10人の悪人がいても教会全体を救ってくれるか、と神に問います。神は救わないと答えますが、結局悪人はいなかったらしく、救いが達成されます。滅びを期待した者は主の前から去り、家に帰ります。滅びは起こりませんでした。妙な妄想をお披露目しました。申し訳ありません。


Takapan
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