全き者である故の契約

チア・シード

創世記17:1-8   


あなたは多くの国民の父となる。それ故に、アブラムがアブラハムという呼び名に変わることとなる。主が契約をもちかけました。多くの国民がアブラハムから出て、ダビデ王もそこから現れることになる、そういう暗示をかけています。その子孫との間にも有効であるような契約をここに立てようという、壮大な計画が提示されます。
 
子孫すべてとの間に、神となる契約を立てると言うのです。また、カナンの全土をも与えようとも言います。契約はこの後、それらに続き割礼とイサクの誕生を告げて、主は去って行きます。但し、この契約に先立つ場面設定は見ておくべきでしょう。アブラハムは99歳、そこへ主が現れるのですが、主は自ら「全能の神」であると宣言しています。
 
そうして、この主の前をアブラハムが歩み、「全き者」であるように、と主は命ずるのでした。「そうすれば」契約を結ぼう、と主は言います。「そうすれば」は、どこにかかる言葉でしょうか。「全き者」となることなのでしょうか。全能の神の前に歩み、全き者であったら、初めてこの契約を結ぶ、というように読めてしまいます。
 
しかし、一方的に契約を守るべし、と投げつけてきました。アブラハムはすでに全き者とせられたのではないかという気がします。神は命じておきながら、すでにそれが達成されたものとして話を進めています。アブラハムは、たまったものではありません。しかし、そこに彼の信仰というものが入ったら、どうなるでしょうか。
 
「全き者となれ」ではなく「全き者であれ」です。英語なら同じ表現であるかもしれません。人の側が努めて「なる」のではなく、すでにそういう者で「ある」ということ、しかもそれは信仰の内に成っていること、そういうことのようにも思えます。すでに15章で、アブラハムは信じ、それが彼の義と認められていたからです。


Takapan
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