プロテスタント出現の運命
チア・シード
創世記15:1-6
カルデラからカナンの地へ。そこでアブラムは突然主の声を聞きます。思いがけず祝福を受けますが、飢饉のためエジプトに一旦逃れます。エジプトに売られたヨセフの物語や、ヘロデの迫害からの幼子イエスの逃避を思わせます。甥のロトも一緒だったようです。が、僕たちの諍いから、ロトはアブラムと分かれて豊かな低地で暮らすようになりました。
主の祭壇もアブラムは築きます。王たちの戦いに巻き込まれたロトを助けるためにアブラムは出向き、救出します。そこへ、何故かサレムの王メルキゼデクが現れ、アブラムを祝福します。これは後にヘブライ書が熱く語る出来事となります。そうでなければ、この記事にどれほどの意味があるのか、後の人は気がつかなかったかもしれません。
「これらのことの後」とは、だいたい以上のことから後のことです。今度は「幻の中で」主の言葉がアブラムに臨みました。「恐れるな、アブラムよ。私はあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい」との主の声に、アブラムはすぐに反応します。自分には受け継ぐ子がいない。それなのに、何の祝福を下さるというのか。
妻のサライだけならず、夫のアブラムも、子のできないことを悲嘆していました。日本ならば「家」というものがありました。養子という形で家督を継ぐことが跡取りの条件であり、「家」は守られます。しかし聖書の世界では、「血」が求められていたようです。実施が、今でいうDNAをつないでゆくことで、血統を継ぐことが重視されました。
もちろん日本でも、そのための努力はあったでしょう。武家や貴族では側室が認められていました。天皇家もそうです。明治天皇までいたといいます。「主はアブラムを外に連れ出して言われた。」内にある思いは閉ざされています。ですから、外に出ることが必要です。私たちの信仰は、自分の心の内を見るのではなく、外の神からのものを見ます。
アブラムは、空の星を主から見せられます。この幻は、もしかすると夜の夢だったのかもしれません。星の数はカウントし尽くすことはできません。子孫がその星の数ほどに与えられるであろう、という主の言葉を、アブラムは信じます。この瞬間、プロテスタントの歴史が運命づけられたのかもしれません。それはアブラムの義となったというのです。