アブラムは本当に主を信じたのか

チア・シード

創世記15:1-6   


カナンの地に入ったアブラムは、甥のロト一族と別れ、土地の王たちとの戦いに勝つと、サレムの謎の王メルキゼデクの祝福を受けます。このことは、ヘブライ書の著者が大きく取り上げていて、大祭司キリストと重ねて私たちが見つめることになります。こうしたことの後に、と創世記の記者は切り出して、重要なこの記事を書き始めます。
 
幻の中に現れた主の言葉でした。けれどもその会話の途中で、主がアブラムを外で連れ出します。さらに犠牲を献げた後、日が沈み欠けてアブラムは深い眠りに落ちて闇に襲われると続きます。どうしても時間的にはスムーズに流れませんから、何らかの時間差を設けて読まないと読者は混乱します。
 
幻において、アブラムは星を見ていました。主が星を数えよと命じたのです。子孫は星の数のように増えると神が言うなら、その通りになるのです。産めよ増えよという創世記の祝福の実現を図るかのようです。そこで突如、アブラムは主を信じ、主がそれをアブラムの義として認めた、と創世記は記述しています。
 
これは信仰の義というまとめ方で、新約聖書に大きく影響を与え、パウロ神学の土台となりました。ローマ書4章、ガラテヤ書3章でパウロが持ち出しています。他方、ヤコブ書は、行いにより完成された信仰のために、同じ箇所を引いています。ヤコブはパウロと同じ根拠で、軽視されがちな別の面を強調するという技を示したのです。
 
しかし。アブラムは幻の中で主の呼びかけに、まず何と応えているでしょうか。子がおらず、家督を継ぐのはダマスコのエリエゼルだと神に行ったのです。不満そうにか、絶望的にかは分かりませんし、エリエゼルが何ものであるか判然としませんが、とにかくアブラムは主の言葉を信じたなどととても言えない対応をしたことは間違いありません。
 
主に向けて、自分に子孫をくれなかったではないか、とさえ言っています。あなたのくれたあの女が、と言い訳したアダムにも匹敵するほどの文句たらたらです。これに対してアダムの時と異なり、主は忍耐の中で、子がアブラム自身から出ると言い、アブラムを外に連れ出します。アブラムの思い込みの小さな閉じた世界から、外の広大な世界へ連れ出すのです。
 
まるでヨブに、この創造のすべてに目を留めよと最後にぶつけたように、アブラムを主は教育しているかのようです。ヨブは神の前に悔い改めましたが、アブラムの具体的な返答はここには見られません。ただ、聖書記者は「信じた」とだけ記します。冷静に見て、どこが信じたと言えるのか分かりません。
 
むしろここまでのアブラムの言動は、非難されて然るべきではないでしょうか。さんざん否定し不満を述べていながら、殆ど根拠なく「信じた」とと聖書は示し、新約の救いにさえつなぎます。思えば、これは大変な慰めではないでしょうか。なぜなら、私たちは、このアブラムほどの信もないのに、キリストにあって義と認められたからです。


Takapan
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