選ばないが与えられた

チア・シード

創世記13:14-18   


アブラムはカナンに入ったが、飢饉のため、一度エジプトへ退きました。聖書ではほかにこうした事例がありました。ルツ記です。それに比べると、ここではさほど時間が経っていないのに、またネゲブに戻っています。財は豊かであったので、飢饉が去れば元の生活に戻ることができたのでしょうか。甥のロト一家も共にいます。
 
互いの羊飼いたちの間で争いが生じたというので、アブラムはロトに対して、分かれて住むことを提案します。飢饉がどうなっていたか知りませんが、二人はともかく別れて生きることになりました。これが二人の運命を大きく分けてしまうことになります。アブラムは、二つの土地を指し示し、どちらを選ぶかはロトに任せました。
 
アブラム自身は、何の計算もしていなかったようです。この点にも、すでに主への信頼、あるいは信仰とというものがあったと見なすべきでしょう。ロトはためらいもなく、見た目で肥沃な低地を採りました。もちろん、それ自体を悪く言うつもりは私にはありませんが、結果的にそこは、住む人間の質が最悪だったのです。
 
悪名高い、ソドムとゴモラです。主が滅ぼす前のことだった、とわざわざ説明まで付け加えています。ソドムの人々は「主に対して」極めて邪悪で、罪深かった、とここで結んでいます。さて、今回私たちが味わうのは、実はここからです。アブラムへ、主の方から声をかけてきます。さあ、見渡す限りの地を与えよう。子孫に、末永く与えよう。
 
無数の子孫をもたらすというのですが、自由に歩き回れるだけのその土地を、主はアブラムに渡すと明言しました。トルストイの「人にはどれほどの土地がいるか」という作品のモチーフはきっとここなのでしょう。このときアブラムには、まだ子がいません。子をもつことは、年齢からしても、常識的にもう諦めるしかありませんでした。
 
アブラムは、この時点で、自分には子がいないということを訴えることができたはずです。しかしそれは、次の機会に回されました。見渡す限りの地が与えられることのほうが、重大だったようです。そう、目の前に拡がる風景すべてを与えるという、その約束は、神の支配が見渡す限り拡がっているというイメージを、私に与えてくれます。
 
そのパノラマを見ながら、アブラムは、ヘブロンのマムレの樫の木のそばを、住む場所として選びました。そしてまずやったことが、主のための祭壇を築くことでした。ヘブロンは、エルサレムの少し南です。ダビデ王がしばらくの間いた場所です。与えられた土地の中で、アブラムがひとつ選んだ場所は、イスラエルの歴史のひとつの要となりました。


Takapan
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