行け

チア・シード

創世記12:1-4   


アブラムは、ただセムの家系の中に置かれた一人に過ぎませんでした。なぜアブラムが選ばれたのか、理由は分かりません。主が、この男なら任務に応えられると知っていたから、というような説明しかできないのです。畢竟、人間にはそれは分からないものなのでしょう。神はとにかく、アブラムを以て、イスラエルの信仰の祖としたのでした。
 
一人の内に物語が凝縮されることがあります。一つのメタファーなのかもしれません。実際は多数の、アブラムに相当する者が歴史の中にいて、それらをひとつの人格に統合して記したのだ、と想定するのは不信仰でしょうか。カナンの地へ旅立つこの人物は、多くのイスラエルの祖先のグループだったとすると、よりリアルに感じられるかもしれません。
 
予告もなく、主が現れてアブラムに命じます。「主はアブラムに言われた」内容は、非常にシンプルです。さあ行け。それも、主が示す地に。私たちにも、異動情報は、突然にやってきます。自分で行こうと求めていたのでなく、言い渡されるのが突然であることはあたりまえであるにしても、「行け」にはそうそう従えないのではありませんか。
 
しもべは、行けと言えば命令に従います。イエスに対して、百人隊長が言った言葉を思い出します。あれをイエスが褒めたのは、その信仰の故でしたが、私にはいま、このアブラムのことと重なって見えたためだ、というような気がしてなりません。その場面でも、アブラハムの名前が登場していたのは、偶然ではないと思うのです。
 
ローマ人の中に、アブラムの信仰が継承されるのを、イエスは見ていたのではないでしょうか。このアブラムは、主に従い、出て行くことによって、あらゆる国民の祝福の基となるというところにまで、進むでしょう。主の祝福があなたを離れない、という約束が、どんなに頼りがいがあり、力強く、無敵であるか、噛みしめてみましょう。
 
私たちは、いったい信仰をもっているのでしょうか。神を信頼しているのでしょうか。人間の文明を、科学を、信頼しているに過ぎないかもしれない、と省みるべきです。アブラムの姿は、私たちが震えるほどに大変なことなのです。主はアブラムに言われた。今日、主は人に呼びかけないのでしょうか。いえ、聖書の中から度々コールしているのです。


Takapan
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