ことばの混乱を深読みしてみる

チア・シード

創世記11:5-9   


天にも届く塔を築こうと目論む人々は、同じひとつの言語で結ばれていたのでした。名を上げ、散らされたくなかったことが説明されています。主はこれを見ようとしたと言いますが、なんとも人間くさい表現方法が取られたものです。「我々」は独特の言い回しのようなので、ここではこだわりません。ただ、「降って行って」というのはどうでしょう。
 
神が高いところにいるから、ということなのでしょう。人間が有する野望や誤った能力の活用などを、より鮮明に浮かび上がらせることになった事件でした。もしここで神が来て混乱させることなく、人間が一つの言語のままであったとしたら、どうなったことでしょう。天に届くほどの塔を本当に築き得たでしょうか。
 
もちろん神はその歴史を許さなかったから、もしもなどと考えることは不信であるかもしれません。言語が一つに通じるということは、統一されるということ。ここで混乱という語がバベルという町の名の由来になっているといいますが、さて、混乱は端的に悪いことであったとするべきでしょうか。人は一つにならないほうがよかったのかもしれないのです。
 
少なくとも神の前で一つの民となり、神を称える者となるに至るまでは、混乱してよかったとも考えられるのではないでしょうか。今、人は一つの言語でまた背伸びをしようとしています。神からの知恵により生かされるのならまだよいが、神になろう、神を超えようとする動機からであると、果たしてどうなるか知れたものではありません。
 
科学という言語。それとも、憎しみというところから生じる言語。これだけ複雑なシステムで世界中がつながって精密に動き作用している時代です。一つの揺らぎ、一つの誤りが増幅され、「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こす」かの如く、全システムが崩壊するようなことにならないとも限らないのが現代ではないかと思うのです。
 
主は、この事件で人を散らしました。それは罰のようにも見えます。しかし、むしろ救いの道であったという理解も可能だと考えます。一つの人間の言葉で集まりまとまる場は危険です。いずれ神がその場を備えてくださることでしょう。今は、それぞれ他国語という関係の中で、互いに尊重することが俟たれているのではないかと共に受け止めたい気がします。


Takapan
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