警告

チア・シード

創世記10:1-6   


26章では、なんと息子のイサクまでが、同じゲラルで妻のリベカを妹ですと偽ることになります。そこではペリシテ人の王アビメレクが召し上げるという訳ではありませんでしたが、誰かがそういうふうにしてしまわないかと恐れ、イサクを祝福するのです。人妻を取るということは、当時の文化では死に値する重罪とされていたことが窺えます。
 
アブラハムはというと、ソドムとゴモラの滅亡の後、ネゲブの地にひとまず落ち着いていました。ガザの南だそうです。ゲラルの王アビメレクはイサクの時と同じ名です。同一人物かもしれませんが、ここから同一の事件が重ねて記されているのではないかと見る人もいます。あるうることですが、いまは決めつけることなく読み進めます。
 
アブラハムの方では、アビメレク王はサラを召し上げています。妹ならば問題はないでしょう。イサクの場合は王がイサクとリベカがいわば゛いちゃついているのを目撃して発覚しますが、アブラハムの時は神がアビメレクの夢に現れて告げています。このペリシテ人の王もまた、主の預言者となったかのようです。
 
他人の妻を取ることは罪であり死を招きます。この掟が徹底していた文化の厳しさを感じます。神が結び合わせたものを人が安易に解いてはならない、というイスラエル世界での了解を見て、現代の私たちが何か申し開きができるでしょうか。人間理性や権利思想などにより自ら緩めてきた秩序でよかったのでしょうか。かつては大罪だったのです。
 
王は、アブラハムの妹だという説明を信用しただけです。正しい者を滅ぼさないでほしいという訴えは尤もです。王は「正しい者」でも殺すのか、と神に問いました。アブラハムはソドムとゴモラへの神の裁きの際にも同じような観点から、正しい者の人数を値切っていきました。10人の可能性で執り成しをやめてしまったことは結果的に空しいものでした。
 
神はアビメレクの正しさを承知していると答え、だから引き留めたのだと説明します。神は、人が罪を犯さないように警告を与える方でもあるのです。これを聞き、従ったのはアビメレクの良さだったと言えるのでしょう。私たちは神の引き留めを聞いているはずです。だのにどうして私たちは、死ぬようなことをしているのでしょうか。


Takapan
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