ノアに見る新約聖書

チア・シード

創世記9:1-17   


人類の祖先はノアだとも言えます。遡ればアダムであるのですが、すべての人は、洪水の後に残ったノアから派生しているというのが聖書に描かれている物語です。無垢な人、非の打ち所のない人というのがノアの形容ですから、私たちはその血を与っていると聖書は描いています。
 
しかしアダム以来原罪というものが人に及んでいるというのが新約聖書の人間観でした。だからこそ第二の人としてのキリストがその罪を無きものにする仕組みが聖書を形作っているのだ、とパウロは公言しました。人の歴史の中で一度集約されるノアが、曲がりなりにも義人のように記されていることで、私たちは希望をもつことができるでしょうか。
 
神は旧約聖書の中で幾度か契約を人間と交わしています。その最初がこのノアとの契約です。契約というと、互いに条件をつけながら結ぶものというイメージを私たちは抱きますが、神と人間との契約は、ある意味で神からの一方的な通知となっています。私たちが抱く契約の語の意味と同一視できないかもしれません。但し、たとえば雇用契約にしても賃貸契約にしても、庶民側はほぼ一方的に言い渡されるのが通例で、その意味ではこの神と人間との契約も、あながち非現実的とは言えないようにも見えます。
 
この契約ではどうしても、最後の美しい虹のシーンが心に残ります。しかし、契約の中でも美しい言葉に目を奪われるととんでもないことになりかねません。ノアの契約はまず、血のことを告げています。命の管理という問題から、その管理の辞令に於ける禁止事項としての血を食することと、血の値の要求が示されました。それにより契約を立てたのです。
 
血。もちろん私たちはここにイエスを見ることができます。イエスが血を流したとき、その血そのものも重要なのですが、命を献げたというところが最も奥深い事実として認められる必要があることが分かります。血は命を表していることが明確です。ここでも「命である血」とはっきり書かれている点に注目しましょう。
 
しかし、肉はその命ではありません。肉は血と切り離せ、と命じているのです。神は、洪水により今後もう肉なるものを滅ぼすことはしない、と自らに命ずるかのように契約の言葉を立てました。肉からできた人間ですが、その中にある命を滅ぼすまい、とは読めますが、肉のほうはやはり死ぬのです。このとき洪水で肉が滅んだのです。
 
私たちは、水によって死ななければなりません。水を通り、肉なるものの肉のほうは滅びるのです。古き己れは死ぬのです。しかし命は滅びません。水で命は死にません。血なる命は保たれています。イエスの血によって救われます。空に架かる虹は、あたかも天の神と地の人間とを結ぶ架け橋のようでありますが、いまやイエスの血が命として、分け離された神と人間とをつなぐ虹となって、私たちに注がれています。虹の一端が、私たち一人ひとりのところにまで伸びてきているのです。


Takapan
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