人の創造とカイン

チア・シード

創世記4:1-16   


アダムは妻エバを知った。固有名詞的なアダムでなく「人」とする訳も多い。どちらがよいのか、文法的また解釈的に説があるようです。知るというのはもちろん性的な交わりのことという理解ですが、人格の交わりも含めて理解すべきではないかと思います。神の前で例の果実を食べたことで相手の責任にするなどして楽園を追われたとあっては、二人の関係は壊れたはずでした。それが交わり合ったのです。
 
産まれた子につけたカインという名には、諸説ありますが、創造の意味合いで読み取ることもできるそうです。神が主語ならば「創造する」と読める語に関係するのだとか。エバが男子を得たと叫ぶ場面は、実は誇らしげに、生命を、人間を創造したのだと豪語しているのだ、という説明を見たことがあります。私もそう読んでみたい。しかしそれは、罪の中に人を創ることとなりました。私たちもその血筋の中にいます。
 
カインとアベルの二人の態度や神の反応は対照的です。どちらがどうだったから神の扱いがこれほど違ったのか、聖書は何も語っていません。様々な説明が試みられていますが、人間が神の審きについて知ることができるのでしょうか。人の論理に適うような仕方で神が審くのであったら、神に人の思いを実現させてロボットのように考える発想と変わらなくなります。人が神の上に立つわけではないのです。
 
カインは怒ります。不当な扱いに対して、感情に歯止めが利かなくなり、その憤りをアベルにぶつけます。神は、その怒りを正しくないと解きます。その怒りの先に、罪が待ち伏せするからそれを抑えよとアドバイスします。神は、確かにカインに語りました。向き合って、直接呼びかけたのです。この神の問いかけに対して、カナンはどう応えたでしょうか。
 
カインは何も言わず、むしろアベルに声をかけます。野原でアベルを殺害してしまいました。襲いかかったと記されています。怒りは他人に襲いかかるもの。私たちも、この殺人を頻繁に行っていないでしょうか。神はアダムの時とは異なり、弟アベルという他人の名を挙げて、カインに「どこだ」と尋ねます。カインはどこだか知らないと答えましたが、これはアダムの時の答えよりは不誠実でした。明らかに嘘だからです。
 
土地の中の血の声は天にも響きます。こうした思想は、後の預言者の言葉にも見られます。イスラエルの恨みが、地面の底から天にまで届いてほしいという願望が反映されているのではないかと思われます。後のイスラエルの立場がアベルに重ねられているとも考えられます。不遇な運命の下にあったイスラエルは、カインのように敵を恐れますが、敵に滅亡させられることはないと約束されます。そして、この私もまた、確かにカインであるのです。


Takapan
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