聖書全体が描かれる

チア・シード

創世記3:1-21   


どこだ。神が捜します。アダムはひょいと姿を現したようには聖書は記述していません。ただ「答えた」のでした。「どこだ」に対して、「隠れている」とともかく答えたのでした。何らかの応答を示したというのは、実のところ隠れていないことになりましょう。園の木の間に潜み、神の前に出られない状況ですが、アダムはそれ以上逃げませんでした。
 
出られないのは、裸でいるためだとアダムは答えました。それまでは裸であることを知らなかったということでしょうか。意識の問題かもしれません。神の前に、裸だから出られない、恥ずかしいから出られない。ここに、自己意識が変化したことを見ます。自分はなにがしかの者であり、裸で出られないと言うのです。もちろん、ヘブライや中東の文化の中でもっと適切な読解が必要なのでしょうが、私たちなりに考えることをやってみましょう。
 
裸であることに気づくようにおまえたちを創造しただろうか。神は訝しく思います。禁じられた木を食べた故に、人の意識が変化したことを、神は知っていました。人がどう変わるものか、分かっていました。神の意図やその配慮について、人に過ぎぬ私が分かってしまうことはできませんが、人間の心理なら少し分かります。
 
先に、中央の木の実を食べた一件で、アダムは女のせいにし、神の責任であるかのように転嫁していました。ひとは、自分の正しさを述べれば述べるほど、誰かを悪者だと訴えてしまうことになります。この構造に、案外人々は気づいていません。自称だけのクリスチャンであれば、平然と日々このような自己弁護ばかりやっているものです。
 
自らを正しいと主張すること自体が罪となってしまう構造に、なかなか気づかないものです。蛇の巧妙な問いかけに正面から向き合うことで、蛇の罠にはまったエバと、正義の主張でそれ以上の罪を犯したアダムのことをよく見ておくべきです。ここには、「罪」という語がありません。この後カインの殺人の場面で初めて聖書に「罪」という語が登場します。が、いまの場面には罪の根源的な姿がちゃんと描かれていると思います。だから「原罪」なのです。
 
神は人に、蛇に、それぞれにこれからの行く道を示します。神の言葉は空しく風の中に消えるものではなく、必ずや現実のものとなり出来事となりますから、ここに描かれているのは、聖書と世界のこれからの成り行きです。聖書の歴史の終わりまで、神の計画が宣言されていたのです。人間には辛いですが、「命」という名のエバがいることで、神の用意する命というものも与えられていると考えてみたいと思います。


Takapan
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