ヤコブと共にいる主

チア・シード

創世記28:10-17   


ヤコブの策略は、エサウの殺意を招き、父の祝福を受けたままにカナンの地を去ることになりました。約束の地から離れることも辞さないほど、これは緊急のことでした。ヤコブを愛した母リベカでしたが、父イサクもまた、ヤコブに嫁の世話までしてやっています。ヤコブは自分の意志でわがままを通したような面もありますが、かなり親の言いなりに動いていることが分かります。
 
アブラハムの祝福が及んでいることについて、イサクは百も承知です。これをイサクの祝福によりヤコブが受け継ぐことも確実となりました。そのヤコブをパダン・アラムのラバンの許へ送ります。アブラハムがカナンの地に来る道半ば、方向転換をする場所です。歴史がそこまで戻ったかのような印象を与えます。
 
ヤコブはベエル・シェバから遙かハランを目指して旅立ちました。石を枕に寝たとき夢を見ます。聖書中唯一ここに見られるという語「階段」または「梯子」があり、そこを天使が上り下りしていました。願いや悩みなどが祈りとしてまず昇っていくのだという捉え方もありますが、確かにヤコブは当惑していたことでしょう。恐れがあり、後悔もあったのでしょうか。もやもやとした思いが胸の内にある、そんなとき、私たちもヤコブになります。
 
そのとき、主が傍らに立つという奇異な体験をします。主はヤコブの名を呼んで呼びかけはしませんでした。神自ら顕れて名のり、西東北南へと子孫が拡がることを約束します。日本語と違い東西南北の順序は聖書では一定していません。案外キリスト教の宣教の歴史を物語っているのかもしれません。
 
そこがベテルと名づけられた命名譚となりますが、後にイスラエルの土地を示す時の最南端を表すベエル・シェバから、ベツレヘムの北のベテルまで来ていたことになります。まだ死海を縦断したくらいの距離でした。そこはイスラエルとなる土地の中央に近い場所でした。ですから、そこから四方に拡がるという約束は、たしかにそうなったと言えるものでしょう。
 
主はこのとき、ヤコブと共にいること、守り、再びここに連れ帰ることを告げます。決して見捨てないと知らせます。慰めの言葉であり、ヤコブは力を得て、十分の一を献げることを誓います。主がおられることを知らなかった、とヤコブは驚きますが、私たちの日常の中でも、こう漏らす時があることでしょう。あるいは、主はつねにすでに共にいて下さり、守ってもらっているという信頼を有しているでしょうか。


Takapan
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