誰がパウロの敵なのか

チア・シード

ガラテヤ6:11-18   


ガラテヤの人々へのこの手紙は、パウロが自ら手で書いているという表現が見られます。口述筆記が多かったパウロにとりこのような一面を見せるのは珍しいことでした。それだけに、自分の気持ちをまっすぐに文面にぶつけていったのだ、とも考えられます。よほど割礼を強要する勢力に、腹が立っていたのだろうと思います。最後まで言い続けています。
 
奴らはよく見られたいがために、また迫害されたくないので八方美人になり、律法を守り通すほどの根性もないくせに、ガラテヤの異邦人を統率したのだと自己満足し、自画自賛したいだけのものだ、と手厳しい。ガラテヤ人が割礼を受けたことでプライドを保とうとしているに過ぎず、パウロの福音理解に反して割礼が必要だなんてとんでもないと感じるのです。
 
この流れから、十字架のほかには誇るものはない、という心に残る叫びが零れたのです。割礼を求めてくる者たちは、十字架を誇るパウロの信仰とは異なるものだというのです。彼らは、パウロを攻撃してくるユダヤ人ではありません。パウロの命を狙う、律法至上主義から抜けられないユダヤ人のことではなく、これはいわば仲間のことです。
 
あくまでキリスト教の仲間です。パウロと解釈の異なる勢力があるのです。プロテスタントの考えを、カトリック側が徹底糾弾したことがあります。ルターの言明を引用してぼろくそに言うトリエント公会議の決議はある意味でいまなおカトリックの基本姿勢として残っていると見る向きもあります。同じキリスト教でもこれだけ相手を異なるとしてけなすのです。
 
プロテスタントの思想を徹底糾弾したカトリック。ルターの一つひとつを拾い、それは悪魔の思想だと呪いをかけるかのようです。このような非難合戦は大いにありうることです。だとすれば手紙のパウロが闘う相手は、エルサレム教会や使徒本部であってもおかしくはありません。
 
おとなしくその献金集めなど小間使い役を演じてきたパウロでしたが、自ら世話をしてきたガラテヤの教会にまでわざわざ出向いて割礼を強いるのは、救いに何らかの行為が必要だとするからでしょうが、キリストの使徒たちの行動が、パウロの救いについての恵みの福音の考え方を根本から否定するような真似をしたとパウロには見えたのです。
 
あんなのはイスラエルなんかじゃない。割礼に惑わされずパウロの示す福音に従っていたあなたがたこそ、新しい神のイスラエルなのです。もうこのことでごたごたを起こしてパウロを悩ませないでほしいとパウロは切願します。なぜなら、新しく創造された人生を歩めるように、あれほど教えておいたのですから。現在の私たちへも教えていたのですから。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります