自由と愛の信仰へ

チア・シード

ガラテヤ5:2-15   


あなたがたが別な考えを持つことはないと確信しています。パウロが言い放つ言葉は、実のところひとつの危機を表明しているに違いありません。別の考えへの傾きが流動的であるからこそ、このように訴えているはずだからです。そんなことは信じたくない、そうだよね、という切迫した思いに不安だからこそ、こう言っているのです。
 
ガラテヤ教会を揺る動かしている、割礼問題。惑わす者が、パウロ不在の教会にわざわざ来て、割礼がなければ救われないなどと指導しました。パウロは強烈に敵視しますが、もしかするとエルサレム教会の本筋であったかもしれません。救いの本質をひたすらにキリストに置くパウロにとっては、従来の習慣は救いの条件とはならないはずでしたのに。
 
教会を掻き乱す者により、パウロの育てた教会が一変しようとしています。これは一大事。自分がこれまで伝えてきた福音が、根本から意味をなさなくなります。十字架のキリストは何だったのか、という憤りさえそこから感じられます。あのキリストは君たちの救いとは無関係のものであったのだろうか。パウロの叫びが聞こえてくるような気がします。
 
キリストが根底にあってこそ、霊も信仰も意味を成す言葉として話すことができたのです。言葉そのものは、実体のないもののように感じられるかもしれませんが、少なくとも神にあっては言葉は存在と一致しています。神を信じ、このコリストにある者ならば、言葉は現実として受け容れられることになるので、パウロは声を大にして、信仰を訴えます。
 
パウロは割礼をテモテに施して、ユダヤ人の顔を恐れてしまった経験があります。そのことについて心に痛みを覚えていたかもしれません。もちろん救いの条件として、ギリシア人のテモテに割礼をしたわけではないはずですが、ガラテヤの人々に律法への回帰を起こさせるようなことは、絶対にさせたくありませんでした。
 
ただ、この思いは、教義を守るような意識から生まれたのではないと思います。このような律法規定に制約されない考え方は、私たちがキリストにあって自由であると信じるからです。私たちは、律法に支配されないキリストの救いによって、自由へと導かれています。そして自由の目的は、愛によって働く信仰であり、互いに仕え合うことでした。
 
そもそも律法なるものも、これを見越して与えられているものだとパウロは解していたと思います。十字架を見つめるからこそ、愛がもたらされ、平和へとつながる。パウロは平和を告げたいのですが、ここでは相当に怒っています。割礼するならいっそのこと切り取ってしまえ、と吠えます。パウロの心の内は平安ではなかったのです。


Takapan
たかぱんワイドのトップページにもどります