信仰によって救われるということ

チア・シード

ガラテヤ3:7-14   


ガラテヤの教会に、律法主義が入り込んできました。ユダヤ人でキリストの弟子となった者が、割礼を受けなければ救われない、と強く迫られたというのです。これはパウロが伝えた信仰の基盤を揺るがすものでありました。ついには、ペトロのありさままで非難する形で、パウロは、そんなことはないのだ、と懸命に口説こうとします。
 
律法を守り行うことで救われるのではない。律法を守れないその自分はすでに死んでいるではないか。あのキリストの十字架と共に、死んだではないか。代わりに、キリストが私の中に生きているではないか。ここに救いがあるのだ、そうパウロは力説します。これは現代の私たちも同じです。キリストが私の内で生きている、それが福音なのです。
 
アブラハムをパウロは持ち出します。アブラハムの、肉体的な子孫のみならず、万人がその救いに与りうることを指摘します。「地上のすべての氏族はあなたによって祝福される」というのが、神がアブラハムに告げた最初の言葉でした。ユダヤ人は割礼を習慣とするに至ったかもしれませんが、外国人は信仰によって神と結びつけられるはずなのです。
 
そもそも律法をすべて守り行うことなど、人間には無理なことです。だから結局、ユダヤ人であっても、律法を守るということで十全な救いに至るわけがありません。守れない者は呪われる、それは申命記で度々言及されている脅威でした。守り切れないからには、人間は呪われた宿命にあるのです。だから、イエスの救いがあるのでした。
 
その呪いをすべて代替的に担った聖いお方が現れたのです。このお方に、自分の罪の呪いを委ねた者は、全き者と見なされることになるのでした。これが救いです。これが神の義です。神がアブラハムへ与えた祝福の流れは、このイエス・キリストの流した血と水によって、いま私たちにも注がれています。なんと不思議なことでしょう。
 
信仰という溝を通して、同じ神の霊が注がれ、流れてきます。時間空間を超えて、この私のところへも、それが流れ及びました。神の霊が、聖書に記されたのと同じように、伝わってきています。もはや私ではなく、キリストが私の内に生きている、という思いが、パウロの叫びと全く同じように満ちています。なんと不思議なことでしょう。


Takapan
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