キリストの中

チア・シード

ガラテヤ3:26-29   


ひとはこれまで、養育掛の下で監視されていました。律法の下で閉じこめられていたことをパウロはこのように表現しています。イスラエルの律法はそれほどにひとを枠の中に押し込め、神と人との関係を、がんじがらめの中で動けないように思わされていたというのです。けれども、イエスの出来事が、すべてを変えました。いまはもう違います。
 
「なぜならあなたがた全ての人が神の子なのだ。信を通して。キリスト・イエスにおいて」というようにギリシア語は並んでいます。邦訳は様々です。新共同訳は「キリスト・イエスに結ばれて」といういつもの趣味。「キリスト・イエスと一致して」がフランシスコ会訳。岩波訳が「キリスト・イエスにある信仰を通して」としており、新改訳2017は「キリスト・イエスにあって」となっています。
 
この曖昧さが聖書の魅力でもあります。その都度別の見方で聖書の言葉が自分に働いてきます。一意的に決定する必要はないとも言えます。信じる者が神の子とされるという扱いは共通で分かりやすいですが、その背景には、信を貫いていることがあるのと、キリスト・イエスの内に(en; 英語で言えばin)あることとが前提となっているような書き方です。
 
次の文は「なぜならキリストへと水に浸けられたそれほどにまであなたがたはキリストを着たのであった」のような内容です。キリスト「へと」は、eis; 英語で言えばins が使われていて前文とは違うのですが、フランシスコ会訳は同じ「一致して」としていますし、新共同訳はどちらも相変わらず「結ばれて」と区別しません。鈍感な印象を与えますし、またそれでは限定的すぎるような気がします。
 
新改訳2017は「キリストにつく」と工夫を凝らしていますし、岩波訳は「へと」を適切に使うよういつも心がけています。ダイナミックなものが伝わってきます。私たちは溺死させられるのです。洗礼、バプテスマ、どう言おうと、それは水に沈められかつての自分が殺されてしまうことを意味します。そしてキリストを着せられるというのが奥義です。ミステリーです。
 
それは自由を意味します。もはや地上でどういう人間であるかということは問題になりません。キリスト・イエスにおいて私たちは一つ、あるいは一人であるというのです。そしてキリストのからだに属します。それぞれ個性はありながらも、役割が異なります。それぞれの働きが全体のために役立っています。同じからだの中の存在なのです。
 
かつてイスラエルに啓示されていたアブラハムの約束や相続地といった点も盛り込んで、このまとめに話は収束します。まるで私たちが一つひとつの細胞のように、キリストのからだを構成しており、一人ひとりが生かされています。「一致」や「結ばれ」で囲い込みをする場合ではありません。キリストの世界に私たちは入れられたのであり、いまやキリストの世界を構成しているのですから、共に生かされて生き生きと輝いていられるはずなのです。

Takapan
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