呪いなるキリストと祝福
チア・シード
ガラテヤ3:13-14
「見よ、私は今日、あなたがたの前に祝福と呪いを置く」(申命記11:26)と、主はモーセに、そしてイスラエルの民に、2つの道を示しました。そのうちの一つが、主が「今日あなたがたに命じる道」(申命記11:28)でした。これはイスラエルに於ける神と人との間に成り立つ定めのようなものであり、パウロにとっても避けられない発想でした。
キリストは、呪いとなりました。キリストが呪われたものとなったために、私たちへの呪いは解かれたのでした。「ある人に死刑に当たる罪があり、処刑される場合、あなたは彼を木に掛けなければならない。あなたは、その死体を夜通し、木に残しておいてはならない。必ずその日のうちに葬らなければならない」(申命記21:22-23)との規定があります。
そしてその理由として、「木に掛けられた者は、神に呪われた者だからである」(申命記21:23)と付せられています。パウロはこれを根拠に、キリストは呪いとなった、と示すのです。それは「私たちのため」でした。だがこの呪いは、一方では祝福のためとなっていました。「アブラハムに与えられた祝福」があったからです。
パウロは、ガラテヤの人々の目をじっと見つめて話しているかのようです。この祝福は、かくして「キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶ」ようになるのです。ガラテヤへも、こうして福音が伝わったのです。神の救いが訪れたのです。異邦人にもユダヤ人にも、「約束された霊」が信仰を通じて受けられるようになったのです。
キリストが呪われたことが、信仰にある者を祝福する。こういう図式がここにあります。パラドキシカルな言及のようにも見えますが、ここから、律法による呪いと、霊による救いとの関係が明らかになるようにも思われます。その辺り、パウロの論法の得意とするところであるのではないかと思います。いろいろな手紙で言及されています。
ここの直前でパウロは、「キリストの真実」(2:16)について触れていました。「キリストの真実」は、「キリストの信仰」というような原語が使われています。「キリストと共に十字架につけられ」(2:19)た私、という捉え方が、この一連の概念を貫く糸となっています。私への呪いは、キリストが負ってくださいました。それは祝福となりました。