与格のひとつの解釈

チア・シード

ガラテヤ2:19-21   


私は律法を通して、律法に死んだ。シンプルで深い表現です。要は、律法を自分で守り実行することだけで人の救いや正義が実現するのではない、ということです。また、律法違反によって罪と定められるような事態もなくなり、元来自分から離れるはずのなかった罪の性質からくる有罪判決が無効になった、ということです。
 
キリストが、罪というものを、もう力がないものと変えてしまったのです。そうして私は、神に生きるようになることができました。律法に死に、神に生きる。この「に」と表してみた部分は、名詞の活用で「与格」といいます。それは非常に曖昧な部分をもち、解釈に自由の度が増すと見られています。日本語の「に」にも様々なニュアンスが伴うと思います。
 
ただ、ここで対比されているのは、律法と神。これはユニークではないでしょうか。律法に関しては人に死がもたらされるだけで、神に関わるなら、つまりキリストの十字架によってなら、生きる者とされるのです。パウロにとり、キリストの十字架は、ひとと神との間にある唯一の扉であり、門です。
 
そのキリストと共に、十字架につけられたのだという意識が、パウロを強く支配しています。「共に十字架につけられる」は一語です。この語は、犯罪人がイエスと共に並んで十字架刑に処せられたという場面で使われています。その意味では特別な語ではないのですが、他に唯一、例外的に、パウロが使っているところがあります。ローマ6:6です。
 
「私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて」、罪の奴隷にならないためである、というのです。ここでは、罪に対して古い自分が死んでおり、神に対してはキリスト・イエスによって生きていると見なすべきであることをパウロが力強く語っています。パウロの福音でも非常に大切な箇所のひとつです。
 
ここで聖書協会共同訳では「対して」と訳していますが、実は原語ではただの与格表現です。このガラテヤ書と条件は同じです。つまり、律法に死んだというのは、罪に死んだというのと同じことをイメージしているのだと思われます。キリストと罪の処分にここでも言及しており、共に自分が死んでいることをよりはっきりさせているのだと思われます。
 
但し、この肉の身でいま生きています。キリストの側の真実とそれへの私たちのレスポンスとしての信仰が結びついている関係の中にあるからです。キリストの死が恵みとして与えられ、深い関係に支えられているために、関係を表す与格の響きが私たちに迫るのではないでしょうか。神との関係がキリストにより適切であるために、命が与えられたのである、と。


Takapan
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