パウロの怨念

チア・シード

ガラテヤ2:15-21   


聖書協会共同訳が「キリストの真実」という訳語に変えたものが目立つ箇所の一つです。ガラテヤの教会へ律法主義が入り込んでいることに憤りに燃えたパウロが、自分の立場の弁明にしばらく手紙の文面を費やした後、律法と救いの関係という本題にいよいよ入ろうとする、その入口の場面です。
 
異邦人を罪人だと平気で呼んでいますが、そのことに拘泥はしないでおきましょう。神から離れたところにいたのではなく生を享けた自分の立場を言おうとしているのです。ただ底では、人が律法規定を遵守することで救われるという教義が走っていたので、イエス・キリストの信により人は義とされるのだと体験したのだと説明しています。
 
行いにより救われる、というのではないというように、ユダヤ人の定説に対して反発をしたのでした。律法に照合すれば、そしてキリストと並べられたら、私は罪人そのものです。キリストの信がそういう罪人を称えるところに向かうはずがないと言いつつ、律法にあって私は死罪にほかならないが、その結果神により生かされることになった、と告げます。
 
もう、かつての罪人としての私がいまここに生きているなどという訳ではありません。キリストの信が私を生かし、むしろキリストの命がここに具現されていると考えており、そう信じているのです。パウロの生き方が、キリストの命そのものとして生きているものとなりました。キリストの信とは、新たな聖書が「キリストの真実」と訳しているものです。
 
キリストの信、キリストが私を信頼しているという構図のことですが、私のために命を棄てたのだから確実です。いえ、キリストが棄てたというよりも、私がそのように受け止めた、とすべきでしょうか。キリストがヒーロー気取りでさあ命を棄てますよ、と考えたのではなくて、あくまでも私の側がそのように捉えた、というだけのことでよいでしょう。
 
これを無視して、いまさら私が何かをしたから救われたのです、などと自分の手柄を表に出すことはできる訳がなと、とパウロは言います。死んだキリストは、私をその命を連れて行く行くための道でした。ガラテヤ教会へ押し寄せた律法の波への、パウロの怨念すらこまった怒りが、この口調となっているように思えてならないのです。


Takapan
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