神殿の基礎

チア・シード

エズラ3:10-13   


主の神殿の基礎が据えられた。このフレーズが、この短い箇所に三度繰り返されます。まだ神殿は完成していません。いわばほんの基礎だけです。けれども基礎が据えられたことで、大いなる賛美が展開し、大きな叫びとなり、泣きむせぶ者や喜びの者が混在し、その区別さえ不可能なほどでありました。どれほどだか知れませんが、それは遠くまで響いたのです。
 
神の祭壇は、礼拝のために築かれていました。かつての土台が見出されていたといいます。モーセの律法に記されているように、献げたようなのですが、果たして律法そのものがその時にどういう状態であったのか、私たちにはよく分かりません。祭壇による礼拝が可能であったのは確かです。その上で、神殿の基礎はまだできていなかったわけです。
 
新約の献げ物は、焼き尽くす動物などの犠牲ではありません。小羊イエスがすでに献げられています。私たちの側がどのようであれ、イエスの業は現にもう成し遂げられています。この祭壇による礼拝はすでに可能であったのですが、神殿の基礎がまだだ、というふうに類比させて読んでみましょう。
 
あなたがたは神の神殿です。パウロはキリスト者にそう告げました。私たちの方で、信仰の基礎がどうなっているのか、問われているに違いありません。イエスの犠牲はすでにあるのに、私たちの基礎がまだだったのです。いま、それが据えられたという瞬間を迎えます。そこに喜びが沸きます。昔の姿を思い起こして、あなたは泣くでしょうか。
 
この場面は、一体どれほど昔のことなのでしょう。それを知る者は相当な老人であったと思われます。当時で超高齢の者たちが大声をあげて泣いたというのです。神殿が破壊された過去を知るからです。過去を傷みとして胸に刻んでいるからです。私たちはそんなに長生きしていなくても、自分の過去を知っています。自分がどんなところにいたか、荒んでいたか、知っています。
 
かつて主を知らなかった自分が、どれほど惨めだったかを私たちは思い起こすことがあります。このエズラ記では栄光の神殿を思い起こすのかもしれませんが、イスラエルの黄金時代を覚えつつ、それが滅んだことを鮮明に覚えているならば、やはりそこには惨めな敗北感しかなかったと言えるでしょう。それが、いま基礎でありながら、据えられた。
 
さあ、喜ぶのです。基礎が据えられたことは、喜ばしいことです。ダビデの規定により賛美がなされ、モーセの律法に従うべく民はみな一つとなります。神殿は崩されました。教会の信仰が何らかの理由で崩れることがあるかもしれません。壊れるままに亡びるのか、建ち直るのかの岐路にある教会はありますか。大切なことは、基礎を据えることです。


Takapan
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