ちょっとこわい

チア・シード

エズラ9:10-15   


私たちの過ち。エズラは主の前に大いに嘆きます。それはエズラ本人の罪のことではありませんでした。エルサレムに残っていた人々が、汚れた原住民と混血になったこと、交わったことでした。それが悪しき行為であり、大きな罪責となるのでありました。忌まわしい民と結婚したことが、イスラエルを滅ぼす、とエズラは言うのです。
 
なんという過激な指摘でしょう。これを聞いたのは、ユダヤの地で細々と生き延びてきた庶民たち。そもそも異国の地に捕らわれ、捕囚だったエリートたちが何十年ぶりから故国に戻り、そのリーダーたる祭司エズラが、自分たちに向けて、異民族と結婚して汚らわしい、と突きつけてきたのです。よくぞそれを受け容れたことか、と驚きます。
 
よそから来たくせに威張るな、と袋叩きにするようなことはありませんでした。エズラがそれほどに信用させた秘密は何だったのでしょう。よほど話がうまかった、ということでしょうか。半世紀以上のわたる国土の変化が、一度に、かつての精神風土に舞い戻ってしまうように命ずるのです。これは、考えてみれば怖いことではないでしょうか。
 
日本で、戦時中あるいはそれ以前の道徳観へ一気に戻り、いまの家族を解体して粛清が断行されるのです。かつて主の名の下にこれが行われ、イスラエルの歴史を別の方向に進ませたことについて、いまここから私がとやかく言うべきではありません。人々と神との関係が立て直されたというのならば、それはそれでよいこととしておきましょう。
 
しかし、人間は、聖書の例を改めて用いることが神の意に適う善である、として、己れの正義を満足させようとすることがあります。魔女を生みだし、異教の文明を滅亡してきました。互いに戦い合いました。エズラの出来事をいまの世に再現しようとする者がいるとは考えられませんが、現れない、と油断していてよいとも思えません。
 
確かに、正しいのは主です。しかしそれを利用して、自分の正しさをアピールしてはなりません。また、そういう者を見張って見出し、見破らなければなりません。生き残った者とて、罪の故、堂々と主の前に立つことはできないのです。しかし罪の中でもなお、主の前に人は立ちます。イエス・キリストがすべての罪を背負ってくださったからです。


Takapan
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