現実を見定める

チア・シード

エゼキエル9:1-11   


打ち壊す道具を手にした6人の男たち。1人は特別な存在のようです。どうやら書記のようです。主は彼らに命じます。しるしのない人間たちを打ち殺せ。滅ぼせ。エゼキエルは独り残され、慈悲を願いますが、男たちは容赦しません。そしてその書記と思しきものが任務完了を宣言します。なんともおぞましい幻であり預言ではありませんか。
 
美しい神の国のことを思うもよいですが、私たちの夢や希望がそのままに己れに実現するとするような甘っちょろい考えがここで一蹴されます。都合の良い論理を、ひとは考えます。ひとはいつの間にか己れを神としてしまうのです。思い計ることが現実となる、それが神の業ですが、人間にとって現実はそうはなりません。
 
神の論理はこのようになります。町に溢れているのは、エルサレムで忌まわしいことが起こっているという事実。これは滅ぼすのです。そして、このことを嘆く信仰の良心をもつ、主に心寄せる一握りの人たちがいます。偶像礼拝に勤しむ多数者たちから、この人たちは迫害されます。実に無邪気に悪を為してくるというのは辛すぎます。
 
わずかな人たちだけが生き残ることになりそうです。主は5人の男たちに、憐れみをかけるなと命じます。惜しむ必要などない。但し、あの書記がその額にしるしを付けた者だけには、手出しをするなと命じます。出エジプトの過越の記事をパックボーンとしているに違いありません。そして今は、キリストの十字架のしるしが私たちにはあります。
 
エゼキエルは、孤独感に苛まれていようかと思います。彼1人だけが助かったというわけではないでしょう。それでも、惨状は確実でした。残酷な仕打ちですが、イエスの語った終末の話は、そもそもこうしたものではなかったでしょうか。思い返せば、イエスは実に沢山の終末の審きの話を、弟子たちに繰り返し聞かせていました。
 
私たちは、つい目を背けていなかったでしょうか。世の現実を見ないようにして、すべてをソフトに扱って、めでたしめでたしとするのは、人間が互いに慰め合うところに生まれていました。地は血に溢れ、町は不法に満ちています。正に私たちの世界の現実は、こういうものではなかったでしょうか。私たちは、打ち殺されて然るべきなのです。


Takapan
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