あなたに向かって来る終わり

チア・シード

エゼキエル7:5-9   


「まさにあなたに向かって、今や終わりが来た。」戦慄の言葉です。神の言葉は、自分に向けて語られたこととして受け止めるのが、信じるということです。私はいつもそのように言っていますから、私にとってはこれまた実に痛い内容だと言えます。「終わりが来た」と、ここだけでもいったい何度繰り返したらよいのでしょう。
 
この地に住む者よ、と呼ばれれば、顔を上げなければならないでしょう。「運命の時が来た」というのは、言葉としてはっきりしないところがあるそうですが、「破滅」かもしれません。苦しい気持ちで読まなければなりません。混乱は極みに達し、主の怒りが一つに注がれます。あなたの上に怒りが燃やし尽くされるのだ、とまで言われます。
 
恐ろしいことです。報いが来るのです。忌むべきもの、口にするのも汚らわしいというようなことが、すべて襲ってくるのです。主は憐れみの主という姿を、ここで完全に隠してしまっているようです。「あなたを惜しまない」という言葉が、絶望的に私に及んできます。実に厳しい言葉です。いったいここに、救いがあるのでしょうか。
 
神はアブラハムに対して、息子をすら惜しまなかった、と称えたことがあります。実のところ、主こそが、惜しみなく与えることをすることになるための祝福であったように見えます。けれども、そのような形で惜しみなく滅ぼしてしまうということが、この私に向けられたとすれば、悲しいことです。ひとたまりもありません。
 
行いに従ってそれを返すというからには、自分のしていたことに、責を負う覚悟をしなければなりません。私の内にある思いそのものが、忌むべきものだと自覚しなければなりません。どんなに自分の罪が、「終わり」と呼ばれるところで重く突きつけられるか、覚悟にまで追い込まれたら、そのとき私は気づくことでしょう。
 
この方こそ主であり、打ち据える者だということに。ああ、なんという恐怖であることか。これは「その日」の有様です。エゼキエルは確かにそれを見ました。見たから告げたのです。預言者の言葉は、すべて実現するのでしょうか。それは神の言葉なのでしょうか。「あなた」と指さされるのが私であっても、そこに現れたのがイエスでした。


Takapan
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