中空の神殿は滅びる

チア・シード

エゼキエル7:25-27   


旧約聖書の本領発揮といったところか。破滅の姿をまざまざと描いています。それは、現実にエルサレムが、そして神殿が、破壊され踏みにじられるところを見た者がいたからです。歴史の中で、こうした破壊は度々あったことでしょう。今のように、戦争犯罪とか人権とかいう思想はありませんでした。強い者は何をしても正義でした。
 
しかしこれは、文化の粋を集め、天地創造の神に選ばれた民だ、と自負していた民族の誇りが無惨に滅亡したのです。彼らにとり、これはショックというばかりでなく、もはや世界の終わりを示すものと目に映ったことでしょう。どこにも平和などと呼べるものはありません。災難に続く災難に、苦悩が襲います。もはや希望というものもありません。
 
預言者よ、神意を解いてくれ。否、もう誰もそのような手助けをしてはくれない。地位ある立場の者は、何の役にも立たなくなりました。イスラエルの民の間で権威のあった人々も、今や何の力ももっていません。凡ゆる望みは消え失せ、惨めに暗闇の中へ引き込まれていくばかりです。でも、このとき改めて民は、主の存在に気づくかもしれません。
 
逆に言えば、こうでもしなければ、イスラエルは主を実際に体験することがなかったのです。背信もありました。けれども表向き礼拝もしていました。主の名により祈っていたはずです。我こそは主の僕だ、とでも言いたげに、人々は振舞っていました。しかし、やはり主を本当に知ることはなかったのです。主と出会ってなどいなかったのです。
 
この教訓は、新約の時代においては、イエス・キリストを知っているか、つまりイエスの救いを受けているか、という点に関わってきます。かつてのイスラエルの民には、悔い改めが必要でした。罪を己れの中に痛切に覚え、十字架のイエスという壮絶な姿が初めて自分の罪の救いであることを、あなたは味わったでしょうか。悔い改めがあったでしょうか。
 
もしも、それなしにイエスを語ったとしても、そこには命はありません。信徒ならば、そういう人も、そこからまた求めてゆけばよいのです。しかし中には、講壇で礼拝説教を語る人が、映画を観てもいないのに、映画パンフレットの棒読みをするような教会があります。中身のないエルサレム神殿が崩壊したことを、他人事としていられるでしょうか。


Takapan
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