終わりがあなたの上に

チア・シード

エゼキエル7:1-4   


「今、終わりがあなたの上にある。」恐ろしい言葉です。これを、私はいつ聞くのでしょうか。平和な状態で、それがどうした、という気持ちで聞くことができるときでしょうか。今際の際で耳にしたなら、恐怖でしかないのでしょうか。でもそのときにも、ここにイエス・キリストがいます、と声を出せるようでありたいと願います。
 
私はこのようにダメな人間であり、神の前に出るに相応しいものはなにも持ち合わせていませんが、この私のためにイエスが十字架を経験してくださったのだ、弁護してくださる方がいるのだ、と頼りにできることを信じています。エゼキエルの幻の中で、主が、終わりが来た、と告げますが、その言葉のこちら側に、イエス・キリストがいるのです。
 
終わりが来る。それは、これから先に来る、とは限りません。すでに来た、とは思えないでしょうか。行いに従って裁くとなると、人間はひとたまりもありません。忌むべきことが、ここに返ってくるというのです。これに堪えうる人はおそらくいないでしょう。否、他人のことはともかく、己れ自信のことを思えば如何ともしがたいものがあります。
 
主は、憐れみの目を向けないとさえ言います。惜しまない、と。厳しい言葉です。それは、主が憐れみをもたない、という意味ではありません。かつては十分憐れみを向けていたのですが、もうその時を過ぎて、取り返しのつかない現在になってしまった、ということなのです。忌むべきことと報いという語が繰り返され、それで主を知ることになろうとは。
 
ならば、それまで主であることを知らなかったという意味になります。この方こそが主人であると気づいていなかったのです。そんなことがあり得ましょうか。ひしひしと、この神こそ主であることを体験していなかったではないか、と責められてきます。でも、決定的なその時に気づいてももう遅い。だから、そうならぬような今であれ、と言うのです。


Takapan
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