預言者の精神状態

チア・シード

エゼキエル7:1-14   


預言者エゼキエルが、とのような形で神から幻を与えられたのか、それは逐一説明されてはいません。この章も突然神からのアタックを受けたかのように、きつい言葉がガンガン並んでいるばかりです。ここまでの預言の言葉が生温かったとでもいうかのように、ここへ来て激しい終末に関する預言が押し寄せてきました。
 
終わりが来る、というのです。いえ、預言者にとってはもうそれは見せられていることです。もう終わりが来たのです。いまイスラエルの上にその終わりがあるのだ、と。これは裁きです。イスラエル民族を集めて育ててきた神が、そして神を崇めてきたはずのその民族であるのに、民族への罰が下されました。この神は生きているからです。
 
偶像の神、人間が作った神ならば、その人の国が戦争に負けれは、国と共に滅びるものでしょう。しかし生きてはたらく神であれば、国が滅びようがどうしようが、お構いなしに力を発揮します。むしろ神の意に反するこの国は、神自らが裁決を下して滅亡に至らせる、その終わりの時がついに来たのだ、と知らせていることになります。
 
愛の神が何故、主の愛する民を滅ぼすのか、と疑問に思うかもしれません。でもそれは人間の都合に合わせた解釈に過ぎません。人間が、神は愛だからそんなことしないに違いないなどと高を括って自分の思い通りに神を動かそうと企んでいるのであるなら、そんなご都合主義は願い下げだ、とでも言わんばかりに、神はイスラエルを叩くのです。
 
主が主人なのです。だから主というのです。その主がここで、幾度も、終わりが来たと言い放ちます。もう聞く耳を持ちません。人の不満を聞く必要もありません。運命の時、破局の時が来たのです。それだけのことです。人間が悪かったのです。人間が間違っていたのです。もはやここまでくれば情け容赦ありません。恐ろしい描写が続きます。
 
エゼキエルの見たものは、よほど恐ろしいものであったに違いありません。この預言者の精神状態に着目するというのは、あまり解釈や説明で聞くことはありません。預言者エレミヤはその生涯が細かく描かれていたほうですが、その非運の人生と彼の悲哀は少し描かれますが、他の預言者についてはホセアを除いてあまり人間らしい個性が紹介されません。
 
預言者は、その告げた内容だけが遺され、後の学者がそれを精査し、研究しています。信徒もそこに書かれてある預言の内容を、注解書で確認するということはよく行います。自分でただ読んでもよく分からないからです。でも、書いた預言者は一体どうだったのでしょうか。預言者も一人の人間ではないのでしょうか。
 
見えた幻を、気も狂わんばかりに泣き叫んで受け取り、かろうじて綴ったというようなことはないのでしょうか。冷静に、ただ「主は言われる……」と念仏まがいの唱え方をしていただけだったと思われますか。恐ろしい風景を神から突きつけられ、見せられて、これはたまらない、と喚きつつ預言していたようには思えないでしょうか。
 
その時が来ました。しかし本当に人間たちがそれを見て、その裁きに遭遇するよりも先に、エゼキエルは何らかの形でそれを誰よりも先にひとり見てしまったのです。精神的にどうかしそうです。なお、主の燃える怒りは、権力者だけでなく、すべての民、群衆へ及ぶと言っています。庶民は安全だとは言えません。そこにも責任があるのです。


Takapan
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