指導者たちの体たらく
チア・シード
エゼキエル45:7-9
預言者エゼキエルは、「捕囚の民と共にいたとき、天が開かれ」「神の幻を見た」(1:1)と言います。凡そ他の誰にも想像がつかず、理解もできないような幻を見せられて、それを書き留めます。それは精神的な病の明らかな兆候ではないか、とすら言われるほどです。イスラエルの地で、イスラエルの民が復興することへ、その幻は向かいます。
ただの幻想ではありません。また、そのための実際的な政治の姿について解釈することもできるでしょうか。特に、神殿に於けるイスラエルの信仰について何かと言及する様子もあります。だとしても、哀しい預言です。エルサレムの神殿は、すでにズタズタにされていました。いくら捕囚の民と共にいても、エゼキエルがそれを知らないはずがありません。
それでも、あの神殿で主を礼拝するのだ、という意気込みを衰えさせる気配はありません。だから、どうしても許せない輩がいます。怠け者ではなく、攻撃してくる者でもありません。エゼキエルが最も非難するのは、イスラエルの指導者たちなのです。「もう十分だ。暴虐と抑圧をやめよ」と刃を向け、「公正と正義を行え」と主の名で命じます。
ただそれは、どの預言者も言うでしょう。エゼキエルは「イスラエルの指導者たちよ」と明確に対象を限るのです。この事態が誰の責任に基づくのか、曖昧にはさせないのです。指導者の所有地は、どこそこに広がっているではないか、と問います。「これがイスラエルにおける指導者の所有地である」とはっきりと指摘します。
「二度と私の民を抑圧」するな。一体指導者というものは、どれほど私利私欲のために権力を恣にしていたのでしょうか。世界のどこの国でもあり得るような、人間の愚かな振る舞いに、神の民イスラエルの指導者たちも、簡単に同調してしまっていたのです。神をすら自分の言い訳や自己流の正義の道具として利用していたのです。