還ることが赦される

チア・シード

エゼキエル39:17-29   


ゴグという、終末の預言にも現れる軍隊がイスラエルを襲うけれども、主がこれに立ち向かう。ゴグの軍勢は葬られてしまう。敵は滅ぶのだ。逆に言うと、強大な軍勢がこうしてイスラエルに向かってくることは確かであることをエゼキエルは告げます。これを避けることはできそうにありません。神によりそれを防ぐことができる、それだけです。
 
イスラエルは、主が神であることを否応なく知ることになるでしょう。そしてバビロンに捕囚された憂き目に遭ったことも、自らの罪の故であったことを痛感し、神がそれに適切に応対したことを覚るでしょう。エゼキエルが総括するこの過程は、イスラエルの救いそのものであり、またそれは私たちの救いにもなっているものです。
 
神は一時的に顔を隠した、との説明があります。これは直ちに神の計らいなのであるのか、それとも人間の側からそのように見えたという感じ方なのであるのか、考える余地があります。預言者という存在の立場と、そこから告げられる言葉の微妙な位置付けについて、私たちは考えさせられるような思いがします。
 
これは確かに、単なる人間の知恵ではありません。ひとつの超越が含まれています。神からのストレートなメッセージである、と捉えることはもちろん信仰の言葉として相応しいものでしょう。しかし、そこに人の心が加わっていないという断定は難しいものです。エレミヤのように、至って人間的な生々しい感情をのせて語られる主の言葉もあるのです。
 
また、それを考慮するからと言って、線引きをして区別してよいのかどうか、それをすることが妥当なのかどうか、私たちは定めづらいのも確かです。私たちの信仰や観念の中で、神の出来事を決定することはできません。ただ、神が現実の中で示してくれたものを受け止めて、私たち一人ひとりが、神からのメッセージを受け止めたいものだと思います。
 
イスラエルは帰還しました。自らの痛みが自分の罪、つまり神との関係の破綻であったことを知るならば、神がその回復を与えるという約束の意味を知ることになるでしょう。そこには赦しがありました。神は赦す神でありました。私たちも還ることができるのです。どこへでしょう。神との関係の中、神の支配する世界の中へ、です。


Takapan
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