罪に死んだ者へ霊が吹き込まれる
チア・シード
エゼキエル37:3-6
エゼキエルが主の霊により連れて行かれ、見せられたものは衝撃的でした。本当に見たのでしょうか。幻覚なのでしょうか。それは誰にも分かりません。しかしエゼキエルのこの体験は、私たちすべてに神の計画を知らしめることとなりました。枯れ骨の谷。なんともおぞましい光景です。刑死者の遺体が捨てられていたのでしょうか。
イエスの体も、危うくこうしたゴミ捨て場行きでした。それをヨセフという有力者が引き取ったお陰で、復活の確かな証拠が与えられたことになります。そこに葬られたはずの遺体が消えた、という証言が可能になったのです。エゼキエルの見たところが、もしも刑死者の墓場であったとすると、私はふと、別のことを考えざるを得なくなります。
この骨たちは、罪人のそれです。罪により死を受けた者たちが、霊を送られて命が与えられるストーリーとなります。そしてエゼキエルと共に、私たちも目撃したわけで、このことの証人となるのです。「生き返ることができるか」と主がエゼキエルに問うたときの返答は、「あなたはご存じです」と訳されていますが、「あなたが」ではないでしょうか。
人間には分かるものではありません。けれども、主からの問いかけに対して、できないなどと迂闊に言ってしまうことはできません。神の業に不可能はないからです。人間にはできないが、主の思うままに相応しいことがなされるだろう、と信頼して言うのが、「あなたがご存じです」であるような気がするのです。でも、主はそうはなさいませんでした。
いえ、主がひとりでしなかった、ということです。主は預言者に任務を与えたのです。つまり、「預言」せよ、とエゼキエルに命じたのです。「今、私はあなたがたの中に霊を吹き込む」と告げよ。すると枯れた骨たちは生き返り、徐々に肉体を形成してゆくでしょう。それどころか、命たる霊を与えられることになるというわけです。
そこまできて、本当に生き返ったことになります。復活というものは霊だけのものではない、とするなら、このエゼキエルへの命令は、復活を指して言っているようにも聞こえるではありませんか。復活の日の有様を見るような気がします。これを聞く私たちもまた、エゼキエルと共に枯れた骨、罪に死んだ人々へ息を吹き入れるよう立てられているのです。