命を与える霊

チア・シード

エゼキエル37:3-6   


霊により連れ出されたエゼキエルは、枯れ果てた骨々の散る平野を見ました。主が呼びかけます。「人の子よ」とエゼキエルに話しかけるその言葉にも着目すべきなのでしょうが、今はこの骨の生き返りのほうに絞りましょう。骨が生き返ることはありうるか、と主は問います。安易に自分で判断しない預言者は、主が知ることです、と答えます。
 
イエスですら、ピラトに対して、あなたが言うことだ、と答えました。自分が決めることなく、父なる神の知ることだ、と祈ったこともありました。私たちは、いとも簡単に自分で安心するような判断をしてしまいます。主なる神よ、あなたが知っている、これは懸命な態度ではないでしょうか。イニシアチブを神に渡すのです。
 
主は命ずる。預言せよ。骨に告げよ。死の世界へ向けて語り、告げることに一体何の意味があるのか。エゼキエルは命じられるままに預言することになります。枯れた骨よ、と呼びかけます。語りかける相手を呼ばなくてはなりません。空なる相手に言葉を投げ捨てるのではありません。力をもたらすものは、向き合っての言葉。逃げてはいけません。
 
誠実さを怠ってならないのです。また、自分の思い込みや感情で対するだけであってはなりません。主が語れということを語るのみです。神は霊を吹き込むと言っておられます。神の息です。土の塊だったアダムに、命を与えた息です。枯れた骨も生きるようになるのです。かつて生きていたその骨々にとっては、生き返るという扱いになるでしょうか。
 
骨にはやがて筋や肉が付着します。皮膚で形が整うと、仕上げの霊が入って本当に生きる者となります。生命活動のための聖と、主を知るに至る精神的な霊とが、ある意味で区別されていることになります。神が人を生かすのにレベル差のある2つの営みがあることを覚ります。命を与えるこの幻を語る役目は、いまここに置かれた自分にもあるのだろうと思います。


Takapan
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