枯れた骨の復活のその先

チア・シード

エゼキエル37:24-28   


エゼキエル書37章というと、枯れた骨が生き返る幻が思い起こされます。メッセージもそこで話がおしまい、となりがちですが、その後何が告げられているか、私も見落としていました。ユダとイスラエルは、もう「二度と二つの国民とはならず、もはや二度と二つの王国に分かれることはない」(22)という、決定的な預言がなされていたのです。
 
そしてイスラエル王国からイスラエル共和国へと転じた現代、果たしてそれは、神の指したイスラエルであると言えるのでしょうか。しかしこれ以上はいまは問いません。もう偶像もなく、すべての背きから救われ、清められるイスラエルの新たな始まりが描かれています。「わが僕ダビデが彼らの王とな」り、「一人の牧者とな」るというのです。
 
かつてのダビデ王ではありません。ダビデのひこばえ、現れたメシア、キリストです。私たちはそれを、あのイエスだとします。神の法、神の掟が、そのメシアの国を統治します。罪を言い渡す律法ではなく、キリストの死と復活がもたらした愛の律法による救いが支配する神の国に、新しいイスラエルが住まいます。神の与えた地に住むのです。
 
「わが僕ダビデが永遠に彼らの指導者となる」と告げたではありませんか。そこに「平和の契約」、即ち「永遠の契約」が交わされます。「私は彼らを祝福し、増やす」というのは、地に増える人間を想定している表現なのでしょうが、救いの国へ招き入れられる者が、今私たちが想定するよりも多くなることを描いているような気がします。
 
そのために聖書が置かれ、小羊が中央に座します。「私は彼らの神となり、彼らは私の神となる」ことで、諸国民もまた、そこに「イスラエルを聖別する主」が在すことを知ります。エゼキエルに見せつけられた枯れた骨の復活は、ここまで来てようやく完結します。救われて命が与えられてよかった、では終わりません。神の国へと目を向けるべきです。


Takapan
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