枯れた骨を生かす

チア・シード

エゼキエル37:1-14   


ショッキングな光景です。幻想的であるにしても、あまりに突飛であり、如何にエゼキエル書の中に奇妙な精神状態を見出したとしても、あまりにもユニークなこの描写。枯れた骨がたくさんあったのが、神の霊を吹き込むことによってつながり、筋や肉が付き、皮膚ができて生き返るというのです。オカルト趣味もいいところですが、ここで描かれるのは、実はイスラエルの回復であるという点を見逃してはいけません。
 
捕囚の民がそこにいるのです。エゼキエルは、国を破壊され、有能なメンバーが遙か遠くのバビロニア帝国に連行されそこで緩やかな奴隷状態に置かれている様を見ています。かつての栄光のイスラエルの民が、朽ち果ててしまったのです。でも神は、それが復興するということを、骨の幻で象徴的に見せてくれている、という場面なのです。
 
これを私たちに引きつけて考えてみましょう。私たちの姿は自身、この枯れた骨、死の姿ではないか、ということです。もはや蘇ることすら想像できない状態です。イエスの復活の時には、手や脇に傷つけられたとはいえ、いまだ体がありました。イエスがもし骨であったら、復活したでしょうか。しかしここでは骨です。枯れ果てたイスラエルには、もはや絶望しかありません。
 
エゼキエルは、預言者エレミヤの見た70年間の限られた捕囚という幻を現実化する役割を与えられました。イスラエルは生き返り、主との交わりを果たすと言うのです。主の霊が吹き付け、命を与えます。私たちも生き返り、主の霊を受けます。四方から風が吹くということは、条件や制限を設けないということです。
 
墓は神が開きます。そして墓から私たちを引き上げます。私たちの死が生へと変わります。エジプトの奴隷状態からイスラエルの民が出されて行った姿がここに重ね合わされます。出エジプトの出来事がいかに大きな意味をもっていたかが、改めて窺えます。これはクリスチャンの姿です。枯れた骨のメッセージは、一度救いを受けたクリスチャンの、その後の有様なのです。
 
約束された地にイスラエルが置かれ、しかしそこから引き渡されてついに枯れたように、クリスチャンもまた、天に国籍がある以上そこが約束されているはずなのですが、希望を失ってしまってはいないでしょうか。もしかすると何かに引き渡されて、神を忘れてなどいないでしょうか。それとも、自らを神とするようなことまでしていないでしょうか。
 
イエスは、父の許に住まいがあり、もしないように見えてもイエスが行って準備をして住まいを調えると言いました。私たちにその土地が与えられる、住まう処がもたらされる希望がもてるように、空を見上げようではありませんか。
 
また、そもそもこのエゼキエルのような役割に、気づいた私が就いているのだという理解が求められているような気もします。聖書を通じて、クリスチャンは幻を見せられています。枯れた骨に勝るとも劣らないほどの不思議な、信じられないほどの恵みと出来事が網羅されている聖書。実のところこれが見せられていたし、信じていなかったのかと叱責を受けるほどに、私は忘れていたのではないかという気がしてきました。
 
かの骨は、イスラエルの家全体を表していました。望みなき人々すべてです。すべての死者が生かされる様子がここにありました。その後の審き云々についてはいまはさておき、すべての死んだ骨に命を与える霊の風が確かに吹くのです。どうやって吹くのでしょう。神の言葉の説教と、祈りと賛美からではないでしょうか。


Takapan
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