荒れ果てた地に人が住む

チア・シード

エゼキエル36:33-38   


荒れ果てていたところが、人の住む所となる。町は建て直される。それは、主が民をすべての過ちから清める日のことです。その日がいつなのか、については、明らかにすることはありません。つねに将来であり、なおかつ現前しているようなものなのかもしれません。エゼキエルが主から受けたその時に限っての、時間計算によるものかもしれません。
 
その日を気にする暇があったら、その内容こそ肝要であることを、思い知るべきでしょう。すべての罪だとまでは言っていませんが、過ちから清める日ということで、別のことを言っているようには思えません。荒れ果てていた町に人が住む。破壊されたところに城壁が築かれ、ひとかどの町となります。廃墟は人の住む所となった、と人々は証言します。
 
人が住むということは、命がある、ということです。植物が生え、命のつながりができていきます。主はその植物を植え直した、ということになります。エデンの園のようになった、という言い方がなされて偶々ではないでしょう。確かにそれは、命ある世界です。絶望に陥った暗い世界なのではありません。荒れ果てていた世が生きるものとなったのです。
 
エデンの園は、生きていたのです。主は、再びこうするのだ、と言いました。命の再生です。イスラエルの家の求めに応じて、するというのですから、これは人が求めたというわけです。求めは必要です。神に願い求める思いは大切なのです。人々は羊の群れのように増えていき、エルサレムの祭りのかつての賑やかさが復興するとの希望が与えられます。
 
でも、エゼキエル自身が、かつてのエルサレムの姿を、どれほど知っていたのかは分かりません。それでも、預言者は告げるのです。人の群れが溢れ、命の喜びに満ちた風景が、見えるのです。大切なことは、民が、このことを成した方は主であることを知るようになる、そのことです。民は今も、これからも、神と出会い続けていくのです。


Takapan
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