新しい心、肉の心

チア・シード

エゼキエル36:25-32   


あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。これまでの心ではだめなのです。これまでの霊では命がなかったのです。人は刷新されなくてはなりません。もちろんこれは、人一般ではなく、イスラエルのことを言っています。だが、イスラエルはいまやすべての人間へと拡がっています。私たちのことなのです。
 
清い水によって清めるという主の業は、あなたがたの肉体から石の心を取り除き、肉の心を与えるのだといいます。肉の心が、肉体のことではないように、訳からも伝わってきます。石のように無機質なものではなく、血の通った命あるものとされることをいうのだと捉えましょう。それは、主の霊を授けるということで成り立つことでありました。
 
かつての律法がいま生き働いて、イスラエルと神とが結びつきます。そこに関係ができるのです。関係を断っていたのは、神の側からではありませんでした。しかし、神が民を清めることで、その関係がよみがえるといいます。法というものが、その関係の復帰の絆となるようです。律法と訳すよりも、法則であり、神の業、そして言葉です。
 
それは私たちの世代にあっては、イエス・キリストを指すものになるでしょう。法を守り行わせるということについては、イエスの愛の命令を重ねたいと思います。イエスに従って生きることです。神の国に住むことをそれは指す、そのようにこの宣言を受け止めてもよいのではないか、と私は思っています。
 
もう汚れたままではありません。もう飢えることもありません。悪や過ちからも守られます。己れをどうぞ嫌悪するがよい。そう、嫌悪しなければなりません。己れの歩みを恥ずかしく思わなければなりません。主がそう突き放しました。その言葉が重く響いてきます。さあ、主が与えたものを、私は本当にちゃんと受けているのでしょうか。


Takapan
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